倉田誠 単語

クラタマコト

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倉田誠(くらた まこと)とは、元プロ野球選手のことである。故人。

概要

1946年6月3日生まれ。東京都港区出身。

鶴見高等学校に進学。エースとして活躍したが、甲子園大会に出場することはかった。

その後、読売ジャイアンツ川上哲治監督が直々に倉田の投球を見に行き、入団テストを受けた後、1965年10月、同球団に入団。ちなみにプロ野球ドラフト会議スタートしたのはこの直後の同年の11月からである。

プロ入り初年度に1試合登板したが、2年1966年3年1967年は未登板に終わるなどプロの壁の高さに苦しんだ。

4年1968年先発投手として登板機会を得て、21試合で6勝5敗、防御率3.34という成績を残し頭を現す。

1969年は3試合の登板で0勝に終わったが、1970年リリーフ投手に転向し、18試合で5勝2敗、防御率0.98と好成績を残し、日本シリーズでも勝利を挙げている。

1971年からは登板数が増加し、同年は44試合、翌1972年は36試合に登板した。

1973年リリーフだけでなく、先発として不調に陥ったエース堀内恒夫を埋める役割も果たし、18勝9敗防御率2.79と大車輪の活躍で巨人V9に大きく貢献。また、勝率.667で最高勝率タイトルも獲得した。

1974年から抑え投手に転向。同年には5勝3敗6セーブという成績を残し、試合を締める役を果たした。

1977年浅野啓司とのトレードでヤクルトスワローズへ移籍。

移籍先のヤクルトでは中継ぎ投手抑え投手として活躍。2年1978年には43試合に登板し、5勝2敗4セーブ防御率4.24という成績でヤクルト球団の初優勝にも貢献。1979年にも36試合に登板している。

1980年、現役を引退

引退後は巨人に戻りフロント入り。球団運営部長などフロントの要職を務めた。

2021年12月7日心不全のため死去。享年75歳

人物・エピソード

力のある直球カーブフォークボール武器に活躍した右腕。

当時としては長身の選手であり、ダイナミックな投法とロボットのようにややぎこちないマウンドでの所作から「鉄人28号」の称でしまれた。

通算成績

投手成績

通算:14年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 374 14 3 55 37 13 --- .598 864.1 378 644 364 323 3.36

獲得タイトル

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最終更新:2024/12/22(日) 17:00

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