倉田誠(くらた まこと)とは、元プロ野球選手のことである。故人。
OB | |
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倉田誠 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都港区 |
生年月日 | 1946年6月3日 |
没年月日 | 2021年12月7日 |
身長 体重 |
185cm 83kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1965年 |
引退 | 1980年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
鶴見高等学校に進学。エースとして活躍したが、甲子園大会に出場することは無かった。
その後、読売ジャイアンツの川上哲治監督が直々に倉田の投球を見に行き、入団テストを受けた後、1965年10月、同球団に入団。ちなみにプロ野球のドラフト会議がスタートしたのはこの直後の同年の11月からである。
プロ入り初年度に1試合登板したが、2年目の1966年~3年目の1967年は未登板に終わるなどプロの壁の高さに苦しんだ。
4年目の1968年、先発投手として登板機会を得て、21試合で6勝5敗、防御率3.34という成績を残し頭角を現す。
翌1969年は3試合の登板で0勝に終わったが、1970年、リリーフ投手に転向し、18試合で5勝2敗、防御率0.98と好成績を残し、日本シリーズでも勝利を挙げている。
1971年からは登板数が増加し、同年は44試合、翌1972年は36試合に登板した。
1973年、リリーフだけでなく、先発として不調に陥ったエースの堀内恒夫の穴を埋める役割も果たし、18勝9敗防御率2.79と大車輪の活躍で巨人のV9に大きく貢献。また、勝率.667で最高勝率のタイトルも獲得した。
1974年から抑え投手に転向。同年には5勝3敗6セーブという成績を残し、試合を締める役目を果たした。
1977年、浅野啓司とのトレードでヤクルトスワローズへ移籍。
移籍先のヤクルトでは中継ぎ投手・抑え投手として活躍。2年目の1978年には43試合に登板し、5勝2敗4セーブ、防御率4.24という成績でヤクルト球団の初優勝にも貢献。1979年にも36試合に登板している。
引退後は巨人に戻りフロント入り。球団運営部長などフロントの要職を務めた。
当時としては長身の選手であり、ダイナミックな投法とロボットのようにややぎこちないマウンドでの所作から「鉄人28号」の愛称で親しまれた。
通算:14年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 374 | 14 | 3 | 55 | 37 | 13 | --- | .598 | 864.1 | 378 | 644 | 364 | 323 | 3.36 |
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最終更新:2024/12/22(日) 17:00
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