和田惟政とは、戦国時代の武将である。室町幕府最後の将軍足利義昭に仕えて活動した。
近江国甲賀(滋賀県)の出身。
足利義昭が将軍に就任する前の逃避行に付き従った忠臣であり、上洛作戦の実現に尽力した大功臣だった。
義昭政権の誕生後は摂津国(大阪府北部)に赴任し、現地で足利義昭の支持勢力を形成した。
足利義昭と後ろ盾の織田信長を仲介し、新政権の西の守備を担った。
1571年、東で織田信長が信長包囲網と戦っている間に、摂津国内では反義昭派と組んだ敵対勢力が挙兵。
和田惟政は池田知正、荒木村重の軍勢と戦い、奮戦の末に討死した。
和田の戦死と荒木の台頭で摂津国における足利義昭派の勢力は衰退し、そのことは近畿周辺の情勢に大きな変化をもたらすことになった。
キリスト教に理解を示し、宣教師ルイス=フロイスからはその人柄・忠誠心・武勇・見識を高く評価された。
甲賀出身ということで創作では忍者属性をよく設定される人物。
足利義昭の上洛と新政権の発足は、和田惟政の奔走もあって実現した。
しかし政権は当初から危機が続いた。
政権誕生の翌1569年には、阿波公方派(足利義昭の対立候補)が将軍の御所を襲撃。(本圀寺の変)
続いて有力大名や有力寺院が、義昭政権の後ろ盾である織田信長を標的とした信長包囲網(第二次)を結成。
新政権は窮地に陥った。
この信長包囲網と同時期に、足利義昭を標的とした別の包囲網が阿波公方派を中心に活動していた。上記の本圀寺の変はその活動の一環だった。
義昭包囲網
・阿波公方派(=アンチ近江公方派)の篠原長房と阿波国衆(徳島県)・讃岐国衆(香川県)
・摂津国:池田知正、荒木村重(下克上)
・アンチ毛利家(浦上宗景、尼子勝久、大友宗麟など)
VS
近江公方=義昭派
・摂津国:和田惟政、伊丹親興(一時期寝返り)、池田勝正(荒木に下克上される)
・山城国:幕臣、将軍家直属の国衆、岩成友通(阿波公方派から離脱)
・大和国:松永久秀(一時期寝返り)VS筒井順慶(アンチ松永で包囲網から義昭派へ寝返り)
・河内国:三好義継(一時期寝返り)、畠山昭高
・中国地方:毛利元就→毛利輝元
♡
織田信長&徳川家康&上杉謙信
VS
信長包囲網
・朝倉義景、浅井長政、六角義賢、武田信玄、斎藤龍興など
・比叡山延暦寺(滋賀県)、長嶋願証寺(三重県)など
大雑把に分けると上記の4つの連合勢力が成立し、生き残りを賭けて争った。
肝心の足利義昭は政権発足直後から足利将軍家の軍事力増強を図り、それを支える権益の獲得に邁進。
この行動がトラブルを引き起こし、後始末をする立場の織田信長と大喧嘩した。
その最中に和田惟政は信長に睨まれて失脚したが、彼はあくまで足利義昭に味方した。
そして第二次信長包囲網が始まる前後に復権した。
信長は和田惟政に、新政権の西の守り(=織田家の背後)を守る大役を期待したとみられる。
いずれにせよ二つの包囲網に挟まされた戦乱の中で、和田惟政は戦死した。
近畿の情勢はややこしくなり、その渦中で惟政の弟も息子も命を落とし、和田家は没落してしまった。
(息子の方は生存説がある)
足利義昭は忠臣を攻め殺した謀反人たちを放置するしかなかったが、和田家が持ち堪えている間に山城国で地盤を強化。
そして運命の1573年、足利義昭は信長包囲網に参加し、荒木村重たちが後ろ盾にした織田信長との武力対決に踏み切った。
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最終更新:2024/05/08(水) 12:00
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