和田惟政 単語

6件

ワダコレマサ

1.4千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

和田惟政とは、戦国時代の武将である。室町幕府最後の将軍足利義昭に仕えて活動した。

概要

近江甲賀(滋賀県)の出身。
足利義昭将軍に就任する前の逃避行に付き従った忠臣であり、上作戦の実現に尽した大功臣だった。
義昭政権の誕生後は摂津大阪府北部)に赴任し、現地で足利義昭の支持勢を形成した。
足利義昭と後ろ織田信長を仲介し、新政権の西の守備を担った。

1571年、東で織田信長信長包囲網と戦っている間に、摂津内では反義昭と組んだ敵対勢が挙兵。
和田惟政は池田知正、荒木村重の軍勢と戦い、奮戦の末に討死した。
和田の戦死と荒木の台頭で摂津における足利義昭の勢は衰退し、そのことは近畿周辺の情勢に大きな変化をもたらすことになった。


キリスト教に理解を示し、宣教師ルイスフロイスからはその人柄・忠心・武勇・見識を高く評価された。
甲賀出身ということで創作では忍者属性をよく設定される人物。

二つの包囲網と和田惟政の死

足利義昭の上と新政権の発足は、和田惟政の奔走もあって実現した。
しかし政権は当初から危機が続いた。
政権誕生の翌1569年には、足利義昭の対立補)が将軍の御所を襲撃。(本寺の変)
続いて有大名や有寺院が、義昭政権の後ろである織田信長を標的とした信長包囲網(第二次)を結成。
新政権は窮地に陥った。

この信長包囲網と同時期に、足利義昭を標的とした別の包囲網を中心に活動していた。上記の本寺の変はその活動の一環だった。


義昭包囲網
(=アンチ近江)の篠原長房国衆徳島県)・讃岐国衆香川県
摂津池田知正、荒木村重下克上
アンチ毛利浦上宗景尼子勝久大友宗麟など)
VS
近江方=義昭
摂津和田惟政伊丹(一時期寝返り)、池田勝正(荒木下克上される)
山城国:幕臣、将軍直属の国衆岩成友通から離脱)
大和松永久秀(一時期寝返りVS筒井順慶アンチ松永包囲網から義昭寝返り
河内三好義継(一時期寝返り)、畠山昭高
中国地方毛利元就毛利輝元

織田信長徳川家康上杉謙信
VS
信長包囲網
朝倉義景浅井長政六角義賢武田信玄斎藤龍興など
比叡延暦寺滋賀県)、長嶋寺(三重県)など

大雑把に分けると上記の4つの連合が成立し、生き残りを賭けて争った。

肝心の足利義昭は政権発足直後から足利将軍軍事増強を図り、それを支える権益の獲得に邁進。
この行動トラブルを引き起こし、後始末をする立場の織田信長と大喧嘩した。
その最中に和田惟政は信長に睨まれて失脚したが、彼はあくまで足利義昭に味方した。
そして第二次信長包囲網が始まる前後に復権した。

信長は和田惟政に、新政権の西の守り(=織田の背後)を守る大役を期待したとみられる。

いずれにせよ二つの包囲網に挟まされた戦乱の中で、和田惟政は戦死した。
近畿の情勢はややこしくなり、その渦中で惟政の息子も命を落とし、和田落してしまった。
息子の方は生存説がある)

足利義昭は忠臣を攻め殺した謀反人たちを放置するしかなかったが、和田が持ち堪えている間に山城国で地盤を強化。
そして運命の1573年、足利義昭信長包囲網に参加し、荒木村重たちが後ろにした織田信長との武対決に踏み切った。

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/05/08(水) 12:00

ほめられた記事

最終更新:2024/05/08(水) 12:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP