筒井順慶 単語

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筒井順慶(つつい・じゅんけい 1549 1584)とは、大和戦国大名である。

概要

大和のひとつ・筒井氏の当が若くして病死したため、わずか2歳で督を継いだ。

大和で勢力を拡大する松永久秀しく争い、時に筒井を奪われ奪い返しと一進一退の攻防を繰り広げた。やがて上してきた織田信長の臣下に降る。最終的には謀反を起こした久秀を攻め落とし、織田政権内における大和責任者としての地位を確立するに至った。

本能寺の変の際には明智光秀から味方に誘われるが、中立をつらぬく。この時の故事は「洞ヶとして、現代では日和見義の代名詞になっている。以降は羽柴秀吉についたが、彼もまたと同じく病に倒れ、小牧・長久手の戦いの頃に病死した。

生涯

戦国時代の筒井氏

大和室町時代には守護が置かれず、興福寺が守護の役を担っていた。その興福寺門徒であり、有力人でもあったのが筒井氏である。

だが同時に大和は隣接する河内紀伊を治める河内畠山氏のも受けていた。その畠山氏が応仁の乱で尾州と総州に分裂すると、大和人たちもっ二つに分かれて抗争するようになった。尾州(応仁東軍)についたのが筒井・十尾、総州(応仁西軍)についたのが越智古市といった面々である。

更に両畠山が衰退してくると、幕府の実権を握った細川氏も首を突っ込んでくるようになり、大和情勢はますますカオスと化していた。やがて細川氏は三好氏に取って代わられるが、信貴山拠点とした三好臣・ボンバーマンこと松永久秀大和支配をして着々と勢力を拡げつつあった。

そんな1550年、筒井順昭が28歳の若さで病死した。この時、死を隠すための影武者として木弥という名の僧侶を用いた話が「元の木弥」の故事として現代に伝わる。

幼主誕生

に代わって督を継ぐが、この時わずか2歳であった。ちなみに順慶は出後の名で、初名は筒井(ふじかつ)という。のち政に改名。ただしここでは順慶で統一。

この年齢では当然政務は取れないので、順昭の、つまり叔父たち(筒井順政、慈明寺順、福住順)が後見人となり、臣たちとよく団結して筒井を守っていった。だが松永久秀の進攻の前に、以前からの筒井氏の盟友であった十市氏松永方に降るなど、決して状況は良くなかった。

一進一退

そんなこんなで時は流れて1565年、順慶は17歳になっていた。だが前年には叔父・順政も死去し、相変わらず状況は不安定であった。

この年、松永一族や三好三人衆によって13代将軍・足利義輝が暗殺されるという大事件(永禄の変)が発生する。そして間もなく松永一族と三人衆は仲間割れを起こして決裂。松永久秀の脅威にされ続けていた順慶たちは三好三人衆と結託するが、逆に久秀の奇襲を受けて筒井を奪われてしまった(第六次筒井の戦い)。

布施に逃れた順慶は、改めて三好三人衆と手を組み、対松永の共同戦線を組むことになった。この頃は久秀と敵対する勢力も多く、翌1566年、久秀がで三人衆と戦っている隙を突き、順慶は筒井を奪い返す事に成功した(第七次筒井の戦い)。東大寺大仏殿の戦いにも参加した(らしい)。

こうした畿内での一進一退のドタバタの中、新たな勢力が登場する。ご存知、第六天魔王織田信長である。1568年、足利義昭を奉じて信長が上してくると、久秀はすばやく信長への臣従を示した。そして織田の力を借りた久秀は大和へ大規模侵攻を行い、またも順慶は筒井を奪われてしまう(第八次筒井の戦い)。

久秀の誤算

順慶は叔父・福住順の下に逃亡する。松永織田方へと寝返る配下人衆も続出し、筒井氏も最これまでか…とも思われた。

ところが久秀は、信長に臣従した事で織田軍の一員として各地を転戦させられる事になってしまう。例えば越前朝倉討伐にも参加しており、金ヶ崎の退き口では朽木元綱を説得するなど活躍している。が、それは久秀にとって一番重要な大和留守にしているという事である。

機をうかがっていた順慶だったが、1570年に十遠勝が跡継ぎなく亡くなって十に内紛が生じると、これに乗じて十を制圧するなど反撃の狼煙を上げた。更に松永方のを次々落としていく。

こうした状況で織田配下にいては自由行動が制限されてしまう事に嫌気がさしたのか、久秀は遂に織田から離反(1回)、大和へと舞い戻ってきた。

1571年、順慶は配下の井戸に命じ、筒井奪還への橋頭堡とするべく突貫工事で建築した。久秀もこれを見逃さず大軍で押し寄せたが、筒井軍は闘の末にこれを撃退し(の戦い)、そのままの勢いで再び筒井を奪回した

信長に臣従

ここに織田が介入を見せ、順慶と久秀はともに信長に臣従する事になり、一応和がなった。この時、織田から順慶への取次ぎ役を担当したのが明智光秀だった。(ちなみに久秀の取次ぎ役は佐久間信盛

だが久秀は諦めず、1572年、今度は足利義昭の第二次信長包囲網に参加する形で反旗を翻す(2回)。一方の順慶は織田への臣従を変えず、久秀や三好義継といった包囲網側の諸の攻撃に参加している。

結局1573年に武田信玄の病死などで包囲網は瓦解し、久秀は再び降する。独自の動きを見せ続ける久秀に対して、順慶は信長に従順に仕え続けていた。それが評価されたのか、人質として差し出していた実も返還され、大和支配の責任者の座を与えられるに至った。

久秀との立場が全に逆転した間だった。

これが一因となったのか、その翌年1577年に久秀はまたも謀反(3回)を起こし、信貴山に籠する。織田信忠大将とした討伐軍の力は筒井軍が担い、間者を送り込むなど様々な活躍を見せた。そして遂に長年の宿敵・松永久秀は居もろとも爆発四散した。

翌1578年には養子・筒井定次(叔父・慈明寺順の子)が信長を妻に迎えるなど、織田政権下における大和の大名としての地位が確立されていった。畿内一帯を統括する明智光秀の与力とされていたらしい。1580年には大和に本拠を移転した(筒井)。

洞ヶ峠

1582年、突如として明智光秀が謀叛を起こし、織田信長は本寺にて自害した。本能寺の変である。

光秀と順慶は、織田に臣従する際の取次ぎ役としての縁に始まり、私ともに交流の多い人物だった。また順慶の妻と光秀の妻は姉妹である。そんな訳で、光秀は順慶に味方に付くように促した。この時、光秀が順慶への威嚇も込めて布したのが洞ヶである。

一方で中国地方から大急ぎで戻ってきた羽柴秀吉からも味方に付くよう促され、一族・重臣らと協議に協議を重ねた結果、中立(正確には秀吉に消極的に味方)という結論に達した。こうして順慶は山崎の戦いには参加することはく、味方を得られなかった光秀は敗死した。その後すぐに秀吉と面会し、関係修復に努めている。

上で述べた通り実際に洞ヶにいたのは光秀なのだが、後世に伝わるうちに混乱が生じて「順慶が洞ヶ山崎の戦い行方を傍観していた」という濡れ衣逸話が生まれてしまい、「洞ヶ」=日和見義という故事成語が生まれた。故事を生むことに定評のある筒井である。

この後も引き続き織田下(実質的には秀吉下)という立場を崩さなかったが、彼もまた若くして病に倒れてしまう。1584年の小牧・長久手の戦いには秀吉側で参戦するが、病身に理をさせすぎたか、同年に死去した。36歳だった。

その後

実子はいなかったので、前述の養子・筒井定次が跡を継ぐ。定次の代に上野へと移封となるが、彼は臣たちとの折り合いが悪く、島左近を筆頭に、筒井を支えた倉・布施といった重臣たちが次々と去っていく。やがて江戸時代初頭に改易され、大名としての筒井氏は滅亡することになる。

余談

小説家筒井康隆氏は順慶を主人公とした小説『筒井順慶』を著しており、その中で著者自身も筒井順慶の子孫であるとしている。が、これはあくまで「作品中に登場する著者は順慶子孫という設定」であって、実際には違うとの事。

創作作品・二次創作など

信長の野望

信長の野望」(PCシリーズにおける筒井順慶の力一覧。

老け顔な2歳児大名、という点でインパクトが強い。シリーズ皆勤賞だが、久秀に追われて浪人として登場するシナリオも多く、大名としての初登場は武将風雲録のS3(1582年シナリオなので、すぐ死ぬ)。

臣は粒ぞろいだが、本人の戦闘力はイマイチで野望も低い。そんな筒井は弱小大名プレイではっ先に吸収の対にされがちである。合

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 68 政治 52 魅力 71 野望 63
戦国群雄伝(S2) 戦闘 73 政治 71 魅力 76 野望 63
武将風雲録(S1) 戦闘 68 政治 68 魅力 73 野望 29 教養 79
覇王 采配 73 戦闘 56 智謀 39 政治 68 野望 29
天翔記 戦才 126(B) 智才 78(B) 政才 144(A) 魅力 78 野望 39
将星 戦闘 49 智謀 74 政治 78
烈風 采配 58 戦闘 44 智謀 73 政治 74
世記 采配 48 智謀 66 政治 73 野望 48
蒼天録 統率 43 知略 70 政治 72
下創世 統率 45 知略 69 政治 72 教養 71
革新 統率 51 武勇 48 知略 77 政治 81
統率 51 武勇 48 知略 77 政治 81
創造 統率 55 武勇 53 知略 76 政治 77

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  • 12 ななしのよっしん

    2021/02/04(木) 20:56:29 ID: A+VyNSJq3U

    原田直政が一時期大和の支配権得てたけど、本願寺との戦いで討ち死にしてしまい、
    棚ボタ式に順慶に大和の支配権が転がり込んでくるという
    賀転封は実質的に得だったという話があるけど大和の寺社との太いパイプぶったられる方がどう考えても損だし、臣の忠心離れも起こるしでなんだよなあ

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  • 13 ななしのよっしん

    2023/06/26(月) 21:42:37 ID: zJciO89h3a

    一応松永久秀勝利したなんだけども、後年の創作などでは久秀のライバルみたいな立ち位置も与えられず、日和見の俗説が先行して小物っぽさが拭えないよね……確かに孝との対応の仕方に関しては差が少なからずあるのかもだけど

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  • 14 ななしのよっしん

    2023/09/27(水) 23:46:26 ID: Cxgjo9+9u+

    信長の野望じゃ本人の力はそこそこだけど
    配下が島左近を筆頭に結構粒ぞろいだから
    浅井六角三好とかなら正面から潰せる力はあるんだよな

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