大内延介 単語

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オオウチノブユキ

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大内延介おおうちのぶゆき)とは、将棋棋士である。故人(享年75)。棋士番号86。九段。東京都出身。

昭和中、後期を代表する強棋士の一人で、タイトル棋王1回、棋戦優勝は8回に及ぶ。

子に飯田之、塚田泰明富岡英作、鈴木大介田村康介藤森子。

概要

21歳でプロデビューと、決してい方ではないのだが、そこから連続して昇級し、1967年にはタイトル戦に初登場。また、1975年には棋王を獲得し、そして名人戦もあと一歩の所で悪手をして持将棋に持ち込まれ、惜しくも戴冠できなかったことは非常に有名。それゆえ最も名人に近づいた棋士ともいわれた。その後は長くB12級以上に在籍し、2009年にC2級降格=引退となった。60歳以上はフリクラ宣言できないため、このような引退ができるというのは強い棋士である(それでいながら、引退までの通算勝率5割以上というから、いかに凄い棋士であったかがおわかりいただけるだろう。しかも、引退間際まで、若手の新鋭佐藤天彦《後の名人》を破ったりするなど、底知れぬ強さも健在であり、引退するにはまだまだ惜しすぎたと囁かれた。

快にして大胆な攻め筋が特徴で、怒濤流と呼ばれた。また、西村一義九段、剱持二八段とともに穴熊三羽と呼ばれ、かの田中寅彦が最もを受けた棋士の一人であり、穴熊党総裁と呼ばれていた。

また、棋界きっての江戸っ子として知られ、周りの若者からも畏敬の念で見られていた。また、多くの若手棋士の襟を正しており、その様は、ハチワンダイバー田の師匠イメージそのものである(鈴木大介という名前師匠内延から来ている)。その一方で、将棋ルーツをたどるインテリ的な趣味を持ったり、将棋フォーラムに参加したり理事を務めたりと、広報役として幅広く活躍もした。

趣味であったことで知られる。囲碁にも造詣が深かったため、彼の死後は日本棋院からアマ八段を追贈されている。また、スキーの腕前は1級導員クラスだったといい、スポーツだったらしく、若い頃はかなり女性にもモテていたらしい。

また、吉永小百合しく、生涯の付き合いがあったことも知られている。

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