安田伊左衛門(1872年8月31日~1958年5月18日)とは日本の政治家、初代日本中央競馬会理事長である。日本ダービーの父、日本競馬の父とも称される。
1872年岐阜県海津郡東江村(現岐阜県海津市)に豪農の長男として生まれる(なので安田財閥とは関係ない)。
幼少の頃から馬を見て育ち、9歳で乗馬を始めた。軍隊では陸軍騎兵に任命される。軍隊での最終階級は大尉。
日清戦争への従事時に日本馬の能力の低さを痛感し、以後日本馬の改良に尽力する。
地元では水害対策にも尽力し、木曽川の改修工事に関わっている。
芦毛の見栄えがあまりよくないと云われたスイテン号(1902年産)を所有し、帝室御賞典などに優勝、また安田は海外に目を向ける先見性があり、スイテンをウラジオストクの日露競馬大会に遠征させ5戦5勝を挙げた。スイテンは53戦30勝、4着以下なしという輝かしい成績を収めた。安田の地元岐阜は馬産地でなかったため種牡馬として盛岡に寄贈したが、のちに馬車馬にされたという噂を聞き捜索したが、行方不明に終わっている。
1910年からの東京競馬倶楽部の設立に関わり、理事に就任。1911年に国内で最も優れた馬を決める優勝内国産馬連合競走を成功させる。議会を説得し馬券を復活させ競馬界に貢献するために1912年衆議院議員に立候補し、当選する。1908年から続いた馬券禁止令を15年ぶりに解き、1923年に馬券を復活させた。「競馬というものは、競走の施行面でも馬券販売でも『公正の保持』が最も大切」を信念とした。
1925年にはオーストラリアに視察、競馬場の設計やバリヤー式発馬機などを持ち帰った。
1932年には英国ダービーに倣い、日本一のレースを目標に目黒競馬場に東京優駿大競走(現在では日本ダービーとも呼ばれ、春の3歳馬の日本一を決める競走になっている)を設立。
1936年には各地でバラバラに運営されていた11の競馬倶楽部を統合し、日本競馬会を設立。理事を10年間務めた。
1951年に安田の功績を讃え、安田賞(現:安田記念)創設。このレースは春のマイル王決定戦として現在まで続いている。
1958年のオークスの開催日に死去。清廉潔白、公正さ、反骨心を併せ持った人物だったとされる。
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/06(土) 08:00
最終更新:2025/12/06(土) 08:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。