山岡景友 単語

ヤマオカカゲトモ

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山岡景友 / 山岡道阿弥(1542~1603)とは、戦国時代の武将である。

概要

甲賀の土山岡氏の出身で江戸幕府の大名山岡家の初代…なのだが、江戸時代にこのが甲賀衆を取りまとめていった結果、当時から忍者関係の逸話が遡及されまくったために服部半蔵よろしく忍者マスター扱いされがちな人物である。たぶんただの土
僧籍時代は浄院暹慶、還俗後の通称は八郎衛門尉、備前守、宮内卿法印、出後は弥。

山岡山岡佐、山岡猶のさらにで、僧籍に入っていた。しかし、出の身でありながら足利義昭に重用され、イエズス会士からは寵臣と呼ばれている。元2年(1571年)の松永久秀離反の際、三淵藤英とともに戦っている。元3年(1572年)に兼見卿記上山の守護になったと書かれ、少なくとも軍記のコピペの他のメンツよりは蓋然性は高い。

足利義昭起に従ったものの、山岡氏は追放後に織田信長に従う。この頃に還俗し、山岡景友となった。おそらく佐久間信盛に従い、以後しばらく山岡行動を共にしたのか、姿が見えなくなる。ただし、本能寺の変には毅然とした態度をとり、瀬田を焼いて明智光秀に敵対したに付き従った。

とはいえ、賤ヶ岳の戦い小牧長久手の戦い羽柴秀吉に敵対している。ところが、いつのまにか剃髪して山岡道阿弥を名乗った彼がしれっと豊臣秀吉御伽衆にいる。さらに関ヶ原の戦いでは全に徳川家康の味方をし、小早川秀秋などの内応の書状を書いている。さらに終戦後は長束正家を追撃し、伏見の戦いでの恨みをらしたとも。

現存する内応の書状類はともかく、関ヶ原の戦いでの活躍は二次史料で齬をきたしまくっているため、の存在である。かくして服部半蔵よろしく甲賀衆を取りまとめる存在となって生涯を終えた。

補足

信長の野望には列伝の文章内にしか出てこない。

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