御伽衆とは、戦国時代から江戸時代初期にかけて大名家に存在した職掌である。
厳密な役職といったものではなく、あくまでも主君の側に仕えて話し相手や物語の講釈を行うといった人々を指す言葉である。記録に残っているうちでは周防大内家で23名が御伽衆として編成されたものが最初期のもののようだが、その後各地の大名家にも広がっていった。安土桃山時代になっても豊臣家などにおいてみられ、そして江戸幕府初期において役職として確固としたものとなった。
とりわけ豊臣家や徳川家のそれはかつての名門から多数選ばれているため守護大名家のその後、といった形で触れられることが多いが、役職としてはそんなに珍しいものでもなくどこの大名家にも割とみられるものである。その構成員は老臣や僧職といったものや、次第に町人なども加わっていくこととなった。
次第に家中で職制がはっきり確立するにつれてやがて衰退し、若い家来が幼い将軍の相手を務める程度のものとなって役職としては消えていくこととなった。
よくあの武将は今的な意味で言及される極めて有名な役職であるものの、半世紀以上前に桑田忠親という学者が行った体系的なもの以来あまり研究が進展していないらしく、実はまだ実態がいまひとつよく分かっていないもののひとつである。
ソースとしてはいろいろと異論のあるものもちらほら混ざっているので、分かるものに関してはそれぞれ出典を明記していく。
800人近くいたらしいが、そのうち名前が知られているのは代表的な数十人程度である。御伽衆が役職として確立したのが江戸幕府であること、豊臣家が公儀とは別に取次などの千利休に代表される豊臣秀吉個人との関係で結びついた内々という層があったというあいまいな制度で運営され、かつ御伽衆もその内々を担っていたこと、などからどこまでが御伽衆の構成員か結構あいまいだったりする。
上の人々は唐入りの際、十二番御話衆として編成された人々だが、その前の十一番衆に編成された以下の人々も出自から分けられているだけで御伽衆として扱われている。
徳川家康の頃から存在はしたものの、おおよそ徳川秀忠の代に制度としての御伽衆を確立させた。
豊臣家の御伽衆の再就職先であり、徳川家の譜代家臣、さらに暇を持て余した各大名を付け加えた構成となっている。
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最終更新:2024/11/08(金) 16:00
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