「佐久間信盛」(さくま・のぶもり 1528?~1582年)とは、戦国時代の武将である。
織田信長に仕えた重臣だが、晩年は織田家から離れて高野山に入った。
尾張国(愛知県西部)の有力な国衆・佐久間家の出身。
若い頃から織田信長に仕えて軍事・外交で活躍した。
信長最大の敵とされる石山本願寺との抗争(石山戦争)では、佐久間信盛が現場の指揮を執った。
石山戦争終結後、信長から職務怠慢を非難する折檻状を送り付けられた佐久間信盛は、長男と共に出奔して高野山へ上った。
しかし信長の命令で高野山から追い出されてしまい、織田家に戻ることなく病死した。
下記の折檻状の内容から、近代以降の評価はイマイチな武将である。
1.佐久間親子は5年も天王寺砦で戦の指揮を執っていたのに手柄を立てていないので、天下の人々は不審に思っている。この信長も思い当たることがあり、言葉にもできないことである。
2.おまえたちの考えを推量してみるに、本願寺は強敵だからと考えて戦わず、説得や調略も行わず、砦の守りを固めているだけで数年も経てば、相手は僧侶であるし、ゆくゆくはこの信長の威光によって退去させることができると考えていたのだろう。
だが武者道とはそういうものではない。このような時、おまえたちが勝敗を見極めて戦っていれば、この信長にとっても、おまえたち親子にとっても良いことだったし、将兵も余計な苦労をしなくて済んだ。それなのに一つの作戦に拘ったおまえたちは思慮が浅いし、命を惜しんだことは疑いようが無い。
3.丹波国攻略で明智光秀は大活躍して、天下の人々に絶賛された。次に羽柴秀吉は数ヶ国を攻略して比類のない活躍をした。池田恒興は率いる兵は少なかったが、荒木方の花隈城を攻め落として、やはり天下の人々から賞賛された。
おまえたちは同僚の活躍を聞いて発奮し、任務に励むべきだった。
4.柴田勝家は同僚たちの活躍を聞くと、越前一国を任されながら手柄を立てなくては天下の評判が悪いと心配して、この春に加賀一国を平定した。
5.本願寺と合戦することに自信がないなら、与力の国人衆に調略を任せたり、それでも上手くいかないならこの信長たちに相談すればよかったのに、5年の間一度も相談に来なかった。油断であり怠慢だ。
6.寄騎の保田知宗が送ってきた手紙には、「本願寺を制圧すれば他の小城の一揆勢は退散する」と書いてあり、佐久間親子の判子も押してあった。しかしおまえたちは今までこんな報告はしてこなかった。手紙を送ってきたのは、おまえたち佐久間親子があれこれ言い訳して保身を図るためではないのか。
7.我が家臣団の中で、おまえは特別な待遇を受けている。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉の者たちをおまえの与力にした。根来衆もいるから、紀伊もそうだ。多数の軍勢を動員できる大身は与力にはいないが、七ヶ国の与力と佐久間家の将兵を結集すれば、どんな戦をしても敵に後れを取ることはなかっただろう。
8.粛清した水野信元の旧領である三河刈谷の土地を預けたので、水野家の家臣団を取り込んで佐久間家の将兵が増えただろうと思っていた。
しかし、おまえは水野家の旧臣たちを雇用するどころか追放してしまった。彼らを追放して浮いた人件費で新しい家臣を雇用すればいいのに、一人も雇用していない。税を貯めこみ、金銀に替えて私腹を肥やしているのは、言語同断である。
9.尾張山崎の城と土地も任せたのに、この信長が言葉を掛けるほど期待した人々も追放してしまった。
これも直前に書いた刈谷の場合と同じやり口なのだろう。
10.佐久間家譜代の家臣たちの知行を加増したり、彼らの部下に与力を配属したり、家臣の新規雇用を行っていれば、こんな落ち度にはならなかっただろう。貯蓄ばかり考えるから、天下の面目を失うのだ。おまえたちの悪評は中国大陸やヨーロッパにまで伝わるぞ。
11.先年、朝倉軍を追撃して撃破した時、家臣たちの判断が鈍く追撃が遅れるところだったので、けしからんことだと叱ってやった。ところがおまえは恐縮するどころか自分の功績を自慢した挙句、席を立ってしまった。そのせいでこの信長は大恥を掻いた。
おまえは大口を叩いたが、あの時この信長が叱ったようなことをいつまで経っても繰り返した。この卑怯さは前代未聞だ。
13.まとめると、おまえたちは欲深く、気難しい上に、優秀な人物を雇用しなかった。物事を真剣に考えて取り組まなかった。要するに武の道を心得ていなかったから、こんなことになったのだ。
14.与力にばかり戦わせて軍役を務め、自分の家臣も増やさず、領地の収益を無駄にしている。卑怯である。
15.おまえの与力や家臣たちまで、おまえを恐れて遠慮している。おまえが自分の思慮を自慢し、「可愛らしく振る舞う女性が、錦の中に針を隠しているかのように」相手の思惑を探るような怖い扱い方をするから、与力や家臣たちはおまえたちを恐れて何も言えなくなってしまったのだ。
16.この信長が家督を継いでから、おまえは30年働いてきたが、その間に素晴らしい働きだとこの俺が讃えるようなことは一度もなかった。
17.この信長が勝てなかった戦いといえば、武田信玄が大軍を率いて徳川領を攻撃したので援軍を派遣した時のことだ。勝敗は戦の習いではある。
それでも、大切な協力者である徳川家康を助けるために派遣したのだから、武田軍に負けるにしても、おまえの兄弟を討死させるなり、譜代家臣を討死させていれば、「佐久間信盛が生き延びたのは、卑怯者だからではなく運が良かったからだろう」と天下の人々は考え、不審に思うことはなかっただろう。
だがおまえは佐久間勢から誰も死なせず、それどころか同僚の平手汎秀を見殺しにしておきながら、天下に対して平気な顔をしている。おまえには全く思慮が足りないことは、これで明らかだ。
18.こうなったからには、どこかの敵を攻め降して名誉を挽回して戻ってくるか、討死するしかない。
19.あるいは親子ともども頭を丸めて高野山へ上り、ひたすら許しを請うべきであろう。
右のように、数年の間、全く功績がなく、お前たちが命を惜しんでいることの詳細は今度の保田のことで思い当たった。そもそも天下を治めている信長に口答えする輩は信盛から始ったのだから、これをもって、終わりの2ヶ条を実行せよ。もし実行しないなら、天下は二度とお前たちを許すことはない。
る。
織田信長に仕えた重臣だが、晩年は織田家から離れて高野山に入った。
上記折檻状の内容から、佐久間信盛の評判は芳しくない。
・粛清されて当然の無能武将
・魔王信長に使い捨てられた可哀そうな人
・時代の変革者である織田信長に付いていけず落伍した常識人
そんな佐久間信盛は、しかし織田信長の生前の事業に最も貢献した武将だった。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)も明智光秀も柴田勝家も、彼には及ばなかった。
時期 | 織田信長を取り巻く状況 | 佐久間信盛の活動 |
1550年代 | 宿敵の今川義元、斎藤義龍に挟まれて苦戦。 多数の親族・重臣・国衆が信長を見限った。 |
一貫して信長を支持。 軍事・調略で信長の勢力拡大に貢献 |
1560年代 | 徳川家康と同盟。美濃・近江南部・伊勢を征服。 将軍家の足利義昭を奉じて上洛作戦を実行。 |
徳川家を援護。 外交で上洛作戦の根回しをして実現。 |
1570年代 前半 |
敵対勢力が信長包囲網を結成。 包囲網との抗争で多数の親族・忠臣を失い苦戦。 |
各地の合戦で勝利して織田家を守り、 同時に協力者の足利義昭勢力を救援。 |
1570年代 後半 |
足利義昭主導の新たな信長包囲網と抗争。 石山本願寺と全面対決。 |
信長と共に石山戦争に取り組む。 並行して近畿・中国地方を転戦。 |
1580年 | 石山戦争終結。 織田家の圧倒的な優勢が確立された。 |
石山本願寺と交渉して退去させた。 直後に折檻状を送られて、出奔。 |
※国衆や寺社と揉め事を起こすトラブルメーカーだった秀吉や勝家と違い、佐久間信盛は信長の手を煩わせない優等生だった。
<佐久間信盛の地位>
・林秀貞と共に織田家臣団の宿老
・軍事外交における活動内容から、他の重臣たちより一段上、というより別格の地位にいたとみられる。
・上洛後は最重要拠点の近江南西部を管轄(京都を含む足利義昭の勢力圏と隣接する)
・金ケ崎の撤退戦の後、信長は永原城(近江の佐久間信盛の居城)で情勢を見てから次の行動に移った。
・信長は織田家の家督と居城(岐阜城)を息子(織田信忠)に譲った後、佐久間信盛の屋敷に居候した。
・朝廷から平和的解決を要求された織田家最大の難題『石山戦争』に、信長と協力して取り組んだ。
・宣教師ルイス=フロイスの記述→「佐久間信盛は、織田信長に仕える最高位の軍事司令官」
<困った時の佐久間頼み>
信長は重要な局面では佐久間信盛に重要な任務を託すことが多かった。
時期 | 課題 | 佐久間信盛の行動 |
1560年代 後半 |
三河西部の国衆が徳川家康に従わない。 上洛作戦前に徳川家と婚姻関係を結びたい。 |
西三河衆を攻撃して織田家に従わせた。 その後、徳姫を徳川の岡崎城まで護衛。 |
1570年 | 金ケ崎の戦の後、信長と主力軍が美濃へ帰還。 その間に近江南部で六角家が挙兵。 六角軍に負けると、織田家は協力者の足利義昭勢力と分断されてしまう。 |
城に籠って信長や足利義昭からの救援を待つのではなく、出撃して野戦で六角軍と決戦。 柴田勝家と協力して六角軍に勝利。 |
1570年代 前半 |
足利義昭勢力が、敵対勢力に攻撃されて危機に陥った。最悪の場合、織田家は東西から挟撃されてしまう。 浅井家・朝倉家・願証寺(三重県)が邪魔で、信長はすぐに救援に行けない。 |
佐久間信盛が近江・大和・河内などの国衆を統率し、足利義昭勢力を救援。 佐久間信盛が織田軍を率いて出張ると、敵はすぐに逃げるか降参した。 戻り次第、織田家の戦に参加を繰り返す。 |
1572年 | 徳川家康が、武田信玄に攻撃されて窮地。 織田軍主力が援軍に行くまで時間稼ぎが必要。 |
近畿の政務と軍事で忙しい佐久間信盛まで駆り出された。 佐久間家が徳川領に近いことが理由か。 家康が武田軍に決戦を挑んだため、任務失敗。 |
1574年 | 越前一揆・武田勝頼・阿波讃岐衆(徳島・香川)の攻勢で、織田軍が負け戦続き。 朝廷に後ろ盾を頼む。 |
朝廷が伝説級の香木『蘭奢待』の切り取りを許可=朝廷が織田家を庇うアピール。 佐久間信盛は信長と一緒に奈良へ行き、切り取り拝領の奉行(企画責任者)を務めた。 |
1575年 | 信長が隠居。城も屋敷も息子に譲り、自身は佐久間信盛の屋敷に居候した。 ただし隠居後も近畿の政務は信長の担当。 |
佐久間信盛は、信長に新しい居城(政庁)を構えることを提案。 信長は大喜びして採用した。 これが幻の名城『安土城』の始まりである。 |
1575年 | 本願寺包囲戦の指揮を執った原田直政が戦死。 明智光秀たちが敵中に孤立。 信長は光秀を助けたい。 |
本願寺1万5千の大軍に、信長は3千の軍勢で突撃。佐久間信盛も一緒に突撃。 結果は織田軍の大勝利。 |
1576年 | 信長(あるいは徳川家)が水野信元を排除。 水野は知多半島などの重要地に推定20万石の所領を有した有力大名。 水野の遺領を誰かが管理する必要がある。 |
佐久間信盛が水野領の管理を任された。 ただし信盛は居城を8年前に近江(滋賀県)に移しており、近畿の政務・軍事で多忙だった。 信盛個人ではなく佐久間家を当てにしたか。 |
1578年 | 羽柴秀吉の失策で中国地方の国衆が多数離反。 足利義昭を擁する毛利家が大軍で播磨へ侵攻。 毛利軍は上月城を包囲し、野戦築城を開始。 秀吉は信長に救援を要請。 上月城の救援=毛利軍との決戦となる。 |
信長は自ら援軍を率いて毛利軍と戦いたがったが、佐久間信盛ら重臣たちが反対。 信長、秀吉は上月城見殺しを決断。 毛利軍は自軍に有利な戦場で織田軍に決戦を挑む機会を逃してしまった。 |
1580年 | 本願寺は戦乱続きの近畿で流通を維持したり、朝廷に多額の献金を行う等、功績は多大。 朝廷から石山問題の平和的解決を要求された。 朝廷に幾度も窮地を救われた織田家は、期待に応えなければならない。 |
佐久間信盛は石山本願寺に対する包囲を続けながら、信長の側近や公家衆と協力して石山本願寺と交渉。 織田家との長年の抗争で血を流した本願寺も、佐久間信盛たちを信じて石山から退去した。 |
尾張の国人衆・佐久間信晴の子。
佐久間家は尾張南部の有力な武家で、織田家に従っていた。
また熱田神宮の大宮司を務める千秋家とは親戚で、この千秋家は東海道・伊勢湾交易で繁栄した商業都市『熱田』に強い影響力を及ぼした。その熱田は織田家の重要な支持層・財源だった。
佐久間信盛が若い頃に佐久間信晴(父親)と織田信秀(主君)は亡くなった。
信盛は織田信長に仕えた。信長が孤立した時期も、信長を佐久間信盛が見限ることは無かった。
<人付き合いは得意>
佐久間信盛は外交・調略でも大きな成果を残した武将だった。
大和国(奈良県)の筒井順慶と松永久秀は宿敵の間柄で、一方を味方にすれば他方が敵に回ったが、佐久間信盛は両者と友好関係を結んで彼らを織田家に繋ぎ止めた。
松永久秀が足利義昭の扇動で最後の謀反を起こした際、佐久間信盛は討伐軍に参加して松永家を滅ぼした。松永家に従っていた柳生家などとも交流があり、そのためか戦後の松永領の処理に参加した。
最大の功績は、石山本願寺の退去である。本願寺の法主顕如は元々織田家との抗争に積極的では無かったが、後継者の教如や本願寺の軍権を握る雑賀衆は抗戦継続派だった。
顕如退去から半年足らずで、佐久間信盛らは教如とも交渉して彼らを退去させることに成功した。
折檻状には与力を酷使したと書かれたが、多数の国衆を従えて彼らと良好な関係を築き、それが織田家の近畿地方での勢力拡大に繋がった。
征服者だったが『堺』の豪商たちと徹夜の月見の会を行う程仲良くなり、無位無官だったが公家や朝廷と関係の深い神官僧侶とも交流した。
仕事では信長が佐久間信盛を信頼し、佐久間信盛が信長に忠実だったことは間違いない。
佐久間信盛は信長と国衆の間を取り持つ取次役を務めたので、信長から国衆に「話は佐久間信盛から聞いた」という書状や、佐久間信盛が国衆に「主君信長によく伝えておく」といった書状は多く残っている。
しかし信長と佐久間信盛は馬が合う仲だったのか、逆に険悪だったのかは不明。
ただし…『信長公記』には、下記の場面が記されている。
越前朝倉家を滅ぼした追撃戦の際、信長は出遅れた諸将を叱責し、そこへ佐久間信盛が違う話を持ち出して信長を黙らせた。
※この時、織田軍は逃げる朝倉軍を追跡・撃滅するために何よりも時間が貴重だった。
信長にとって佐久間信盛は、信頼できて相談を持ち掛けることもできる部下ではあったが、私人としては苦手な相手だったのかもしれない。
1580年、佐久間信盛の尽力もあって、本願寺教団は石山本願寺から退去。
そして大功労者の佐久間信盛は、息子共々19ヶ条の折檻状で信長から弾劾されてしまい、すぐ後に出奔して高野山へ入った。
『信長公記』には、高野山に入った佐久間父子が、信長を恐れて高野山にも居られず逃げ出したことが記されている。
佐久間信盛は織田家に戻らないまま亡くなった。
佐久間父子出奔は、その後に起きた他の重臣たち(林秀貞他)の失脚と併せて、魔王信長あるいは革新者信長による粛清と考えられることが多い。
現代の「魔王信長」、「革命児信長」象の根拠として必ず持ち出される実例である。
<追放ではなく出奔>
どちらも失脚という結果は同じだが、面子を重要視した戦国時代の人々にとっては大きな違いがあった。
追放の場合は追放された人物が悪い、となるが、出奔だと主君に対する抗議と人々が捉える場合があった。
追放の場合、佐久間父子は織田家の管轄地から出ていく前に、任務や所領の引き継ぎをしなければならなかった。
このような場合、追放される者は先ず家臣と与力に事情を説明する。
→家臣には可能なら親族など次の仕官先を斡旋する。与力には感状や太刀などを与えて経歴の証明とする。
→城の受け取りに来る上使を待つ。
主君の方では先ず側近(信長の場合は堀秀政、菅谷長頼など)を派遣して城を受け取らせる。
→彼らを臨時の取次役(連絡役)として、与力たちに事情を伝える。
→その後に代官を送り込んで行政を担当させる。
という手順を踏んだ。
ところが佐久間父子はいきなり出て行ってしまった。
佐久間「出奔」後、信長は佐久間信盛の与力だった国衆に書状を出した。
「佐久間信盛を殺すべきだったが、追放処分で済ませてやった。佐久間父子が織田家の管轄地へ戻ることは絶対に許さない」
信長はこの内容で国衆に下記のことを伝えたとみられる。
・信長は寛大な主君である。
・佐久間父子は自発的に出奔した(=信長に抗議した)のではなく、信長が彼らを追放したのである(悪いのは佐久間父子)。
・この処分は断固として覆さない。
・だから佐久間父子を援助するな。
佐久間父子出奔の事実の後にこのような書状が出されたことは、現地の国衆の間で混乱が生じていて、それが信長に対する不満に繋がりかねない情勢だった可能性を示している。
<高野山という大勢力>
当時の高野山は、管理地の神武東征まで遡る歴史&弘法大師空海など過去の名僧達の偉業という権威、蓄えた財力とそれを稼ぎ出す商業利権権益、権益を守る武力を兼ね備えた巨大宗教法人・財閥だった。
高野山や傘下の寺社と紀伊国人衆は朝廷への献金も行っていて、中央政界との結びつきが強かった。
本願寺教団に匹敵する組織がもう一つ存在していた、と考えると分かりやすい。
織田軍に協力して活躍した紀伊根来衆が属する根来寺も、高野山グループの一員だった。
高野山は、秀吉が手を入れるまでは貴人の駆け込み寺でもあり、時の有力者が高野山へ入る形で関係者への抗議運動を行うことがあった。
その聖地へ佐久間父子が入った結果、織田家と高野山の対立が始まってしまった。
<佐久間父子の行動>
佐久間父子は高野山へ入る際、金などを寄付して今後の世話を頼んだ。
佐久間信盛は下記の祈願文を納めた。
「突然訳も分からずこのような目に遭わされました。神仏のご加護で織田家へ戻ることができましたら、その暁には感謝を捧げて寄付を致します」
この祈願文は以下を示している。
・佐久間信盛は、織田家に居られなくなった理由(折檻状に挙げられた内容)に心当たりが無かった。
・織田家に戻りたい気持ちはあった。
『信長公記』によると、信長は「佐久間父子が高野山にいることは許さない」と言い、そのことを伝え聞いた佐久間父子は怯えて紀伊の山奥へ逃げ込んだ。
佐久間信盛は高野山側の史料によると1581年に死去。江戸時代の史料では半年後の1582年に死去。
『多門院日記』では1581年、佐久間信盛の死後に織田家が、高野山に所属する山伏に制裁を加えた記述があり、1581年が正しいとみられる。
佐久間信盛の死後、彼の遺産を織田家が没収しようと使者を送ってきた。高野山側は使者を殺害した。
ちなみに佐久間父子が逃げ込んだ紀伊(和歌山県)も、実際は高野山が力を及ぼす土地だった。
佐久間父子は織田家に力ずくで高野山から連れ出されるのが嫌で(まるで罪人扱いだから)、信長がその方法を検討する可能性自体を潰すために紀伊へ移住したのかもしれない。
また「佐久間父子は高野山へ入った後に困窮した」、「特に息子の佐久間信栄は苦労した」、「そんな彼に仕え続けた忠心の従者は後に武士に取り立てられた(良い話)」が江戸時代に作成された史料に記述された。
ところで佐久間信栄は大変コミュ力の高い武将で、現地の名士地主たちとしっかり交流した人物だったことが、現地に遺った史料から判明している。
この辺りは九度山の真田幸村のように、後世の人々に誇張されたのかもしれない。佐久間信栄は真田家のように大勢の家族や家臣を連れて行ったわけでもなかった。
<折檻状の内容と時期>
折檻状の内容は、後世の佐久間信盛に対する評価に多大な影響を与えた。
しかし佐久間信盛の経歴と業績を考えると、言い掛かりに等しく、信長がもしこれを世間に広めたとすれば、大変拙い内容だった。
というのも同時代に生きる織田家の敵味方は、佐久間信盛が昔からの重臣であり、功績は多大で信長を見限った前科はなし、という事実を知っていたからである。
またこの折檻状は送られた時期も拙かった。
大敵本願寺を降して重臣を粛清するには都合の良い時期と見られがちだが、本願寺退去も朝廷への報告、本願寺と今後の関係についての協議、石山本願寺門前町の整備、瀬戸内海―京都間流通の担当者割り当て、摂津に送り込んだ池田恒興らの中国方面軍参加の準備など、進めるべき大事業が山積していた。
そのタイミングで佐久間父子が出奔してしまったため、信長は高野山問題まで抱える羽目になった。
その高野山と信長はそれまで対立はしておらず、高野山と組む根来衆とは上手く付き合っていた。
信長―筒井順慶―興福寺―高野山という人脈もあり、この時期に佐久間父子を利用して高野山に介入する必要も無かった。
<出奔事件の原因? 石山本願寺全焼>
出奔事件で取り上げられることは少ないが、事件の前に石山本願寺は全焼した。
この重大な出来事は本願寺の坊官が記した当時の日記に記されている。
この火事の後に、信長は摂津国(大坂府)を旅行した。
朝廷側の史料には、公家がこの旅行に参加する許可を上位の公家に願い出たことが記されている。
一団は京都を出発して摂津国へ入り、要所を巡って帰路に着いた。
この旅行で一団は、石山本願寺の跡地までは行かなかった。
ところで石山本願寺は門前町に囲まれていて、その周辺の土地は河川が合流し河原と湿原が広がっていた海抜の低い地域であり、現代のように視界を遮る高い建物は無かった。
おそらく石山本願寺が最も高く目立つ建物だっただろう。
つまり、旅行中の一団から遠目に見えてしまったかもしれないのだ。
火事で丸焦げになった石山本願寺の無惨な有様が。
見えなかったとしても、火事のことはすぐに伝わっていた。
当時大人数の旅行では、信長の側近たち(毛利新助、服部小平太など)が方々に連絡し、参加者を募り、多忙な信長と宿泊先の寺社のスケジュール調整をした。当然急に中止できるものではなかった筈である。
殊に石山本願寺との抗争は、時の天皇と朝廷が強い関心を寄せ、最後は公家の協力で解決した問題だった。
折檻状が使者の手で佐久間信盛に届けられたのは、信長が旅行から帰った直後の時期。書状が書かれたのは帰路の途中だったと考えられる。
計画時は楽しい旅行になる筈だったのに、石山本願寺全焼で台無し。
→旅行中ずっと気まずい空気。
→大恥を掻いた信長が、石山本願寺受け取りの責任者である佐久間信盛に八つ当たりし、今までの鬱憤も込めてあること無いこと書かせた折檻状を送り付けた。
→恩賞の沙汰が気になる家臣や与力たちが注視する中で、職務に忠実な信長の使者に折檻状を読まれてしまった佐久間信盛が面目を失い、信長から喧嘩を売られたと思い込んだ。
→報復のために出奔して高野山へ駆け込み、世間の注目を集めて信長に詫びを入れさせようとした。
→引き継ぎも指示してないのに出奔されてしまい、信長が慌てて与力たちに言い訳の書状を出した。
→高野山には佐久間信盛たちを追い出せと圧力を掛けた。
→高野山側は、佐久間父子の存在を口実にして信長が高野山の事業に介入してきたと疑い、対決姿勢。
→信長も対抗。互いに山伏や使者を殺してしまい、一触即発の状況に。
→見かねた朝廷が介入して、織田家VS高野山の軍事衝突を回避。
という誰得の大喧嘩が起きたのかもしない。
真相はいずれにせよ、佐久間父子の出奔事件は佐久間信栄の織田家帰参で幕を閉じた。
しかしこの事件が残した悪影響は後日、大きな戦を引き起こす原因となった。
<高野山と秀吉>
とばっちりを受けたのは、出奔事件と全く関係ない羽柴秀吉(豊臣秀吉)だった。
本能寺の変の後、秀吉は諸戦を制して信長の勢力と事業を引き継いだが、そのため高野山との対立関係まで抱える羽目になった。
1584年、秀吉包囲網の最中、紀伊国の寺社・国人連合軍が和泉・河内・摂津へ侵攻し、秀吉が拡大整備事業を進めていた大坂(石山本願寺の門前町から発展)を焼き討ちした。
その後挽回を果たした秀吉は、高野山を攻撃して彼の政権に従わせた。
以後は「高野山へ上る」という行為に抗議と当てつけの意義はなくなっていった。
※ただし後年、秀吉が弟の残した武家を解体した際、存続を訴えていた家臣の藤堂高虎が高野山へ上った。
また秀次事件では、豊臣秀次が高野山に上って秀吉に「抗議した」説がある。
※高名な武士が自分の所在を明らかにして、仕官の誘いを待つ場所として高野山は利用され続けた。
<その他>
佐久間父子は、出奔事件のずっと前に改名していた。
「信盛」→「定盛」、「信栄」→「定栄」
佐久間家の通字(家の構成員の名前によく用いる一字)は「盛」であり、「佐久間盛重」「佐久間盛政」などである。
「信」の字は、佐久間家の過去と佐久間信盛の経歴からすると織田家の通字「信」を与えられた可能性が考えられる。
もしそうだとすると、佐久間父子は何故改名をしたのか、「定」の字はどこから貰ってきたのか――。
この謎については、書状に書く差出人の名前を略した場合、信長と佐久間信盛の名前は似てしまったからではないか、という説がある。
織田信長 「前右大臣信長」「右大将信長」→「右 信」
佐久間信盛 「佐久間右衛門尉信盛」→「左 右 信」
佐久間父子の改名が信長と相談してのものだったのか、それぞれが改名についてどう思っていたかは不明。
佐久間の諸家は織田信秀が台頭すると彼の織田家に属し、三河侵攻の尖兵を務めた。松平広忠の謀殺にも関与している。
その佐久間一門に生まれた佐久間信盛は、成長すると織田信秀に仕えた。その後は織田信秀の指示で織田信長に仕えた。
1555年に織田信長が叔父の守山城主と争うと、佐久間信盛は守山城の家老たちを味方に付けて、信長が信頼する兄弟の織田信時を城主に据えた。
この功績により織田信時から領地を与えられた。
翌年、織田家の主導権を巡って対立した織田信長・織田信勝兄弟が稲生の戦いで激突。
晩年の織田信秀の地盤は織田信勝が継いでおり、また多くの重臣たちが織田信勝に味方した。兵数でも信勝方が有利だった。
その中で佐久間信盛は信長に加勢した。またこの時、佐久間一門の佐久間盛重は織田信勝の家老だったが、信長方に寝返った。
当時、尾張鳴海城は今川家が支配していた。鳴海城は知多半島の付け根に位置し伊勢湾の重要拠点だった。
1559年、信長は鳴海城の周囲に砦を築いて同城を孤立させた。
この包囲陣に佐久間信盛も参加。弟の佐久間信辰と共に、鳴海城の東にある善照寺砦に駐屯した。
翌1560年、桶狭間の戦いが起きた。
南の丸根砦・鷲津砦は陥落。一門の佐久間盛重と、共に信長を支えた同僚の飯尾定宗が玉砕している。
『寛政重脩諸家譜』には佐久間信辰が「善照寺砦において軍功を挙げた」という記述があり、これが事実なら善照寺砦にも今川軍が襲来したことになる。
ただし信長は今川本陣を攻撃する前に善照寺砦へ行き、軍勢の集結と戦況の観察を行っている。
佐久間信辰が挙げた武功とは「襲来した敵を撃退」ではなく、敵情視察だったのかもしれない。
今川義元が敗死すると、佐久間信盛は織田軍を率いて鳴海城を攻撃。
城主の岡部元信が城から退去すると、佐久間信盛は信長から鳴海城代に任命された。
今川軍が尾張から撤退すると、織田家は三河の水野信元と協力して三河へ侵攻。今川方の松平元康(徳川家康)たちと戦った。
織田家と徳川家の同盟が成立すると、織田家は美濃や伊勢へ侵攻。
この時期の佐久間信盛の動向は不明だが、信長が美濃侵攻と不況対策の公共事業で築城したとされる小牧山城の跡地から、平成時代の調査で「佐久間」と記された石垣の巨石が見つかっている。
1566年、三河西部で徳川家に従わない寺部鈴木家を、佐久間信盛が攻撃して軍門に降した。
周辺の国人衆も織田家に従い、三河西部は織田家の統治下に入った。
1567年、織田信長の娘徳姫が、徳川家康の長男信康に嫁入りして岡崎城へ移住した。
佐久間信盛は徳姫一行を供奉して岡崎城へ送り届けた。
また佐久間信盛は、信長が美濃の征服を完遂する前から大和の柳生宗厳(柳生石舟斎)を通じて松永久秀と連絡を取っていた。
当時の松永久秀は将軍候補の足利義昭を支持し、新将軍足利義栄を奉じる三好三人衆と交戦していた。
1568年、信長は美濃を平定。同年9月に足利義昭を奉じて上洛作戦を開始した。
佐久間信盛は先鋒部隊に属し、敵対する近江六角家の箕作城攻撃に参加して城を攻め落とした。
さらに近江西部に進軍し、六角家に従う永原家を降伏させた。
永原家の居城だった永原城は京都も近い重要拠点で、佐久間信盛はこの城に入り、近江南西部の国人衆を率いる立場になった。
※この時に近江国人衆を率いることになった武将は他には柴田勝家、森可成、中川重政。
織田軍が上洛し足利義昭が朝廷から将軍に任命されると、佐久間信盛は新政権を支持する畿内の国人衆の取次を行った。
また朝廷に人脈を持つ神官の吉田兼見や堺の豪商たちとも交流を深めた。
佐久間信盛は娘を河内の安見右近に嫁がせた。さらに佐久間一門の佐久間安政が紀伊国人・保田知宗の娘婿になった。
安見と保田は河内畠山家の家臣で、畠山高政は織田軍上洛の際に信長に味方していた。
さらに安見右近の居城とされる河内交野城は、織田家に従った畠山高政・松永久秀・三好義継それぞれの勢力圏の中間に位置した。
1569年、織田軍が伊勢の北畠家を攻撃。佐久間信盛も参戦した。
1570年6月、織田軍は若狭・越前に侵攻したが、朝倉家と浅井家に挟撃されて退却。
逃げ戻った信長は永原城にしばらく滞在して様子を見た後、美濃へ帰還した。
7月、織田軍主力が近江から離れている間に旧主・六角承禎が挙兵。織田家と対決した。
この時、近江では浅井長政が一揆を扇動したために織田軍主力が美濃まで遠回りの道を強いられるなど、反織田勢力が優勢だった。
近江に留まっていた佐久間信盛は籠城ではなく出撃を選び、柴田勝家や与力たちと合流。野洲河原の戦いで六角軍に決戦を挑んだ。
この戦いで織田軍は大勝し、南近江の統治は安定した。
もしこの戦いで織田軍が負けていたら、織田家は地方大名に逆戻りしていたかもしれない。
一方浅井家は、朝倉軍の協力を得て近江・美濃国境に砦群を構築し、織田家の分断を図っていた。しかし南近江の織田軍が勝利して健在だったため、目論見が崩れた。
同月末、信長は大軍を動員して浅井領を東西から挟撃、砦群を排除し、近江横山城を包囲した。佐久間信盛も参戦している。
浅井・朝倉軍が救援の為に南下、徳川軍が信長に味方して参戦、姉川の戦いが勃発した。
双方の損害は同程度だったとされるが、織田軍は横山城を降伏させて浅井領を分断した。事実上の勝利だった。
翌1571年6月、織田軍は長島一向一揆を攻撃。近江を守る佐久間信盛・柴田勝家も動員された。
織田軍は撤退するところを一揆勢に奇襲されて惨敗した。
同年10月、織田軍は近江へ侵攻。浅井家に味方する一揆の拠点を攻撃した。
佐久間信盛は柴田勝家・丹羽長秀・中川重政と共に織田軍を指揮し、一揆の城を攻め落とした。
11月、比叡山焼き討ちに参加。
織田家サイドの史料でも全域を焼き討ちにして皆殺しにしたと記述されているが、建物の調査から実際に焼かれたのは一部の施設のみだったことが判明した。
近江平定戦で手柄を立てた佐久間信盛は、近江にも所領を与えられている。
この年には大和の筒井順慶が、この頃は織田家に味方していた松永久秀に従う国人衆を攻撃した。
佐久間信盛は筒井と松永の仲裁を行った。
1572年4月、三好義継と松永久秀が織田家から離反し、織田家に味方する河内畠山家を攻撃。高屋城と交野城を包囲した。
佐久間信盛は織田家の有力武将たちを率いて救援に向かい、三好・松永の砦を包囲。
三好・松永勢は嵐に紛れて退却し、それぞれの城で籠城した。
7月、織田軍が小谷城を攻撃。織田信忠の初陣でもあり、佐久間信盛も参戦した。
11月、滝川一益、平手汎秀と共に、武田軍の侵攻を受けた徳川家に援軍として合流。
信盛たちは浜松城で籠城することを主張したが、徳川家康は出撃を決断。
戦闘の結果惨敗したが、佐久間勢は一人の犠牲者も出さず撤退に成功した。同僚の平手は戦死している。
1573年3月、足利義昭が松永久秀・三好義継と共に挙兵して織田家と対決、槇島合戦が始まった。
信長はすぐに軍勢を派遣し、佐久間信盛も参戦。
将軍と織田家の間で和睦が成立し、政権運営に向けた取り決めの内容が話し合われた。
信盛は将軍側から織田家代表の一人として交渉に参加するよう求められた。
佐久間信盛の意見は織田信長の判断を左右すると、将軍側は見ていたようである。
織田家と将軍の話し合いが行われていた同年4月、信長は織田家と対立する近江の百済寺を包囲。百済寺は近くの鯰江城に篭る六角義治と協力していた。
佐久間信盛は柴田勝家、丹羽長秀、蒲生賢秀と共に鯰江城を包囲した。
同月には織田軍が百済寺を焼き討ちして全焼させた。百済寺と鯰江城は距離が近いので、佐久間信盛たちが焼き討ちを実行したのかもしれない。
(延暦寺「全山」焼き討ちの話は百済寺焼き討ちの話が元か?)
同年6月、河内の有力者で三好家と関わりが深い遊佐信教(親将軍派)が、畠山昭高を謀殺して高屋城を乗っ取った。
7月、将軍足利義昭が再び挙兵し、槇島合戦を再開した。
合戦は織田軍が勝利し、足利義昭は娘婿の三好義継を頼って河内若江城へ移った。
8月、織田軍が小谷城を攻撃。佐久間信盛も参戦した。
救援に来た朝倉軍の撤退を信長は見逃さず猛追して勝利したが、この時先陣にいた諸将の動きが鈍かったことを激しく非難した。
佐久間信盛は涙を流して「そう仰られても、我々ほど優れた家臣をお持ちになられるのはそうできることではないでしょう」と発言し、信長の怒りを買った。
同年10月、朝倉家、浅井家を滅ぼした織田軍は北伊勢へ侵攻。
佐久間信盛も参戦し、丹羽長秀・羽柴秀吉・蜂屋頼隆と協力して一向一揆の城を攻略していった。
同年11月、足利義昭は堺から船出して織田家討伐の為の活動を再開した。
三好義継は将軍を支持したので、信長は佐久間信盛に若江城を攻撃させた。
信盛は若江城で家老(若江三人衆)を味方につけて城へ攻め込み、三好義継を自害に追い込んだ。
1574年に入ると越前一向一揆が蜂起して越前全域を占領。
3月には武田勝頼が美濃東部へ侵攻して諸城を攻略。
佐久間信盛は信長に従い救援に向かったが、城から内通者が出て陥落し、間に合わなかった。
同時期には阿波・讃岐の三好軍が和泉に上陸して砦群を構築。長老格の三好康長は遊佐に招かれて高屋城に入り、守りを固めた。
危機的状況の中で信長は真先に正倉院の香木蘭奢待の切り取りを朝廷に願い出て認められ、奈良へ向かった。佐久間信盛も同行している。
同年4月、佐久間信栄(信盛の長男)が包囲していた近江石部城から六角承禎が退去し、佐久間勢が同城を接収した。
同月、石山本願寺が挙兵して三好軍と連携した。
佐久間信盛は織田軍を率いて高屋城を攻撃した。
この戦いで遊佐信教を戦死させたものの、高屋城を攻め落とすことはできず撤退。
織田軍は帰る前に河内・和泉・摂津に砦群を築いて本願寺と三好軍の連絡を遮断したが、畿内の状況は織田家不利のままだった。
同年6月、織田軍は8万の大軍を動員して伊勢へ出陣、現地の一向一揆を壊滅させた。
佐久間信盛も参戦していたが、8月には河内に出陣して三好軍と戦い、河内飯盛山城などを攻略した。
1575年3月、佐久間信盛は兵糧を三河へ運び、徳川家へ渡した。また三河の情勢を信長に伝えるのも佐久間信盛の仕事になった。
信長と家康は武田軍の襲来を予測し、佐久間信盛は両者の連絡役を務めて決戦の準備を進めていたようである。
翌4月には信長に従い、織田家を脅かす三好軍と対決。高屋城攻めに参加した。
この時も決着はつかず戦いは長引いたが、織田軍が転戦して三好軍の砦を排除した結果、孤立した高屋城の三好康長は降伏した。
大打撃を受けた三好家の一門は次々に降伏したので、この方面の敵は本願寺に絞られた。
翌5月、長篠の戦いに参戦。
主力決戦では織田軍右翼を滝川一益と共に形成して奮闘し、勝利した。
年末頃に信長が長男の織田信忠に家督を譲り隠居。佐久間信盛の屋敷に押し掛けた。
信盛は家督を譲ったといっても朝廷から政治を任されているのは信長だからという理由で居城を持つことを勧め、喜んだ信長は安土城の築城を計画した。
1576年1月、三河の有力者だった水野信元が織田信長に粛清された。
水野家の領地だった三河の刈谷・粉河は佐久間信盛が管理することになった。
この事件は江戸時代の史料では佐久間信盛の讒言によるものではないかとされている。
一方、同じく江戸時代の史料では、徳川信康(家康の長男。織田信長の娘婿)に仕える石川数正と平岩親吉が、城を出て寺に入っていた水野を切腹させたとされている。
地元史では「長篠の戦いの後、三河統治で用済みになった水野家を徳川家・織田家が共謀して排除したのではないか」とされている。
水野信元の弟忠重は徳川家に出向していた。後に佐久間信盛が失脚すると水野家の旧領の一部を信長から与えられた。
ちなみに織田家には刈谷水野家の分家の尾張常滑城主・水野監物守隆という人物がいた。
佐久間信盛と一緒に茶会に参加した記録がある。
水野監物は水軍を率いた武将で、石山本願寺攻めでは佐久間与力の和泉水軍と協力した。
1576年2月、石山本願寺が毛利家と同盟して挙兵した。
信長は織田軍主力を率いて摂津へ出陣、佐久間信盛も参戦した。
合戦は織田軍が勝利し、本願寺領の周辺に砦群を築いた。
天王寺砦には明智光秀と佐久間信栄たちが入った。
翌3月、織田軍が各地へ帰還した隙に、本願寺の大軍が織田軍の砦を攻撃。
本願寺包囲の指揮を執る織田家の塙直政が迎撃したが敗死、孤立した天王寺砦は本願寺軍1万5千に包囲された。
信長は河内で将兵を召集したがすぐに兵は集まらず、軍勢3千のみを率いて救援に向かった。
そして天王寺砦への接近を阻む本願寺の大軍に突撃した。この戦いで佐久間信盛は先鋒を務めて信長の無茶に付き合った。
多数の死傷者を出しながらも織田軍は奇跡的に勝利して本願寺軍を敗走させ、天王寺砦の救援に成功した。
信長はさらに召集した軍勢を各地に派遣して砦を増やし、石山本願寺の補給を断つ作戦を開始。
天王寺砦には佐久間信盛・信栄親子が入り、以降は信盛が対本願寺の作戦指揮を執ることになった。
同砦には松永久秀・久通親子も駐屯した。
1576年8月、信長包囲網に参加した毛利家と瀬戸内の水軍が大坂湾へ襲来。織田方の水軍と対決する第一次木津川合戦が勃発した。
織田軍が惨敗したこの海戦を、佐久間信盛は検分して詳細を信長に報告した。
また佐久間信盛は手勢を率いて本願寺領に侵入し、稲を刈り取った。食料の略奪は、兵糧攻めの一環であり挑発行為でもある。
同年8月、佐久間信盛に協力していた大和の筒井順慶に対し、信長は軍備を整えておくよう指示を出した。同月、松永久秀・久通が織田家から離反。軍勢を率いて大和へ戻り、信貴山城に籠城してしまった。
佐久間信盛や筒井順慶は織田信忠に従い、松永討伐に参戦。松永家は滅亡した。
松永の旧領の処理には佐久間信盛も携わっている。
1578年4月、播磨に毛利家の大軍が侵攻。羽柴秀吉の救援要請を受け、織田信忠率いる織田軍が現地へ向かった。
翌月には信長自ら播磨へ行き主力決戦を実現しようとしたが、この播磨出兵は佐久間信盛など重臣たちに諌められて中止になった。
佐久間信盛も播磨に出陣し、毛利家に味方した播磨国人衆の攻撃に参加しtあ。
同年10月、摂津の旗頭だった荒木村重が織田家から離反。
佐久間信盛はすぐに軍勢を率いて出陣し、荒木勢を牽制した。
信長は松永の時と同様、説得の使者を送った。佐久間信盛も使者に加わっている。
説得が失敗すると、荒木村重の与力だった高山右近を説得する使者団に佐久間信盛も参加した。
同年12月、大阪湾で第二次木津川合戦が行われた。
織田水軍はこの戦いで毛利水軍を撃退し、石山本願寺を孤立させた。
佐久間信盛は事前に和泉水軍の淡輪徹斎と連絡を取り、毛利家に味方する瀬戸内水軍の動向の把握や海戦の準備を進めていた。
1580年に入ると加賀一向一揆の最大拠点だった金沢御坊が織田家に降伏した。
織田家と石山本願寺は朝廷の仲裁で和睦交渉を行った。佐久間信盛は信長の側近を務める松井友閑たちと共に、本願寺と交渉を行った。
交渉の結果、本願寺の法主顕如は石山から退去して紀伊国へ移住した。
後継者の教如が徹底抗戦を主張して石山本願寺で抗戦を続けたが、佐久間信盛は本願寺の包囲を継続する一方で教如との交渉も行った。
同年8月、教如率いる主戦派も石山から退去。教如は石山本願寺を丁寧に清掃させてから退去したが、強風による失火で石山本願寺は焼失した。
本願寺の退去後、信長から今までの行いを弾劾する書状を送り付けられた佐久間信盛は、長男信栄と共に出奔して高野山へ上った。
1581年または翌年、佐久間信盛は織田家に戻らないまま死去。
佐久間信栄は織田家へ戻り、織田信忠、次いで織田信雄に仕えた。信盛の弟の佐久間信辰も織田信雄に仕えた。
二人とも織田家が衰退していく中で織田家に従って戦い、その後は各々の家を存続させた。信盛の他の息子たちも家を興し、佐久間家は江戸時代に繁栄した。
掲示板
91ななしのよっしん
2023/01/23(月) 12:18:18 ID: gVKLsPl9er
92ななしのよっしん
2023/02/08(水) 20:06:45 ID: 3ptPMT6PeI
追放の理由として本願寺全焼は説としては面白いけど、同じく本願寺引き渡しの責任者だった武井夕庵がお咎めなしだったのは疑問が残る
93ななしのよっしん
2023/02/08(水) 20:37:41 ID: Cu2racHLhV
この記事の19ヶ条の折檻状の最後に…
る。
織田信長に仕えた重臣だが、晩年は織田家から離れて高野山に入った。
って記述が有るけど、なんか書き損じみたいな記述だから、編集で消したほうが良いと思う。
急上昇ワード改
最終更新:2023/03/21(火) 11:00
最終更新:2023/03/21(火) 11:00
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