杉浦清 単語

スギウラキヨシ

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杉浦清(すぎうら きよし)とは、元プロ野球選手監督である。故人

概要

1914年7月20日生まれ。愛知県岡崎市出身。

商業学校に進学。野口明鬼頭数雄らとともに中商業黄金時代の中心選手として活躍し、全中等学校優勝野球大会3連覇に貢献している。

卒業後、明治大学へ進学。ここでも力として活躍し、リーグ戦4連覇に大きく貢献。また、中学校監督が応召を受けてチームを離れていた際には臨時監督を務めていた。

大学卒業後、明治大学大学院に進学したが、1941年に応召を受けた。

ラバウル終戦を迎えた後、1946年、32歳で中部日本(現:中日ドラゴンズ)に入団。

初年度の1946年ショートレギュラーとして起用され、打率.282、7本塁打、46打点、13盗塁記録7月からは選手兼任監督に就任したが、チームは7位と振るわなかった。

1947年打率.245、5本塁打、48打点、18盗塁記録し、ベストナインに選ばれた。チーム成績も投手が好調であり前年から大きく成績を伸ばした2位と躍進している。

1948年打率こそ.229と成績を落としたものの、12本塁打、54打点と長打力を発揮。ただ、チームは最下位(8位)に沈み、同年限りで監督を退任し、選手に専任することとなった。

1949年、4番打者を任されると、打率.266、23本塁打、77打点、13盗塁記録

1950年サードに転向し、打率.296 26本塁打 96打点、13盗塁記録

1951年大洋ホエールズへ移籍。大洋ではクリーンナップを打つショートとして起用され、打率.251、17本塁打、60打点記録

1952年国鉄スワローズへ移籍。選手層の薄いチームにおいて、4番サードとして起用され、初年度は打率.244、25本塁打、63打点記録

1953年、10本塁打記録したが、同年限りで現役を引退

引退後は解説者として活動していたが、1963年に古巣・中日監督に就任。初年度は2位と善戦したが、2年1964年は選手たちとの間で確執が生じ、最下位に低迷。シーズン途中に休養に入り、そのまま退団することとなった。

1987年8月22日、死去。享年73歳。

人物・エピソード

走攻守三拍子を高いレベルで兼ね備えていた内野手。特に守備面では日本プロ野球史上初の500捕殺を記録するなど、固い守備が売りであった。

日本プロ野球史上初のナイトゲーム勝利を挙げた監督でもある。

大学院まで進んでいるからか、理路整然したわかりやすい話し方をしていたようで、権藤博は「私が現役時代に聞いた監督の話でこの人は抜群にうまいと思ったのが杉浦清監督だ。」と述べている。

通算成績

打撃成績

通算:8年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 899 3701 3316 450 846 125 493 78 14 --- 356 14 340 51 .255 .330

監督成績

通算:5年 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
NPB 524 249 264 11 .485 Aクラス2回、Bクラス3回

獲得タイトル・表彰・記録

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