町田行彦(まちだ ゆきひこ)とは、元プロ野球選手である。故人。
| OB | |
|---|---|
| 町田行彦 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 長野県長野市 |
| 生年月日 | 1934年3月8日 |
| 没年月日 | 2025年9月22日 |
| 身長 体重 |
177cm 73kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 外野手 |
| プロ入り | 1952年 |
| 引退 | 1965年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
長野北高等学校へ進学。高校通算36本塁打を放つなど長距離砲として活躍したが、甲子園大会には出場できなかった。
入団直後、肩の強さを買われ外野手に転向。
2年目の1953年、ライトのレギュラーに定着し、108試合に出場して、打率.225、5本塁打、25打点を記録。
1954年、打撃の才能が開花し長打が増え、打率.250、20本塁打、66打点を記録。盗塁も17記録している。
1955年、主に3番打者として起用され、オールスターゲームにも出場。打率.280、31本塁打、71打点を記録し、本塁打王のタイトルを獲得し、ベストナインにも選出。
1956年、4番打者として起用されたが、開幕前に故障していたことが響き、打率.172、6本塁打、16打点と低迷。
1957年、打率こそ.227と低打率ではあったものの、セ・リーグ2位の21本塁打を放ち復調。
1958年、打率.206、8本塁打と打撃面は今一つだったものの、自己最多の28盗塁を記録。
1959年7月26日、対中日ドラゴンズ戦でサイクルヒットを達成。
1962年以降は低迷。
1965年、球団の経営権が国鉄からサンケイに譲渡された際、高給取りであり成績も低迷していたことから自由契約となる。その後、テスト生として読売ジャイアンツに入団した後、正式に契約。
巨人では27試合に出場したが、打率.095と結果を残せず、同年限りで現役引退。
引退後、古巣の巨人やヤクルト、統一ライオンズなどで打撃コーチや二軍監督を務めた。
三振こそ多いものの豪快な打撃で長打を量産した長距離砲。全盛期には中西太と並び称されていた。
俊足・強肩の選手でもあり、二桁盗塁を7度記録し、外野手のシーズン最多捕殺を3度記録している。
| 通算:14年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 1415 | 4422 | 3922 | 459 | 913 | 129 | 459 | 133 | 40 | 25 | 408 | 26 | 848 | 90 | .233 | .307 |
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最終更新:2025/12/06(土) 09:00
最終更新:2025/12/06(土) 09:00
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