石井茂雄(いしい しげお)とは、元プロ野球選手である。故人。
OB | |
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石井茂雄 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 岡山県真庭郡 |
生年月日 | 1939年5月6日 |
没年月日 | 2005年3月28日 |
身長 体重 |
180cm 77kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1957年 |
引退 | 1979年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
勝山高等学校の定時制に進学。在学中、地元で行われた大学野球部の練習試合で大学生相手に凡打の山を築いたことがスカウトの耳に止まり、1957年8月、勝山高校を中退し阪急ブレーブスに入団。
入団からしばらくは故障もあり、なかなか結果の残せないシーズンが続いていた。
1962年、開幕投手に抜擢され47試合に登板したが、4勝9敗と期待には応えられなかった。
入団7年目の1963年、突如として覚醒。最下位に沈んだチームにおいてチーム最多の17勝(17敗)、防御率2.92の成績を残し、ローテーションの中心として活躍。以降、足立光宏・梶本隆夫・米田哲也らとともに阪急投手陣の中心選手となっていく。
1964年、自己最多の28勝を挙げ、シーズン通して最多勝争いを繰り広げたが、小山正明が30勝をマークしたためタイトルには手が届かなかった。
1965年、21勝をマークし2年続けて20勝超えの成績を残した。
1967年、勝ち星こそ伸び悩んだが、9勝4敗、勝率.692の成績を残し、最高勝率のタイトルを獲得。チームのパ・リーグ制覇にも貢献した。
1968年には11勝、1969年には12勝をマークし、阪急のパ・リーグ3連覇に大きく貢献。
1970年、チームは4連覇を逃したが、石井自身は16勝12敗と好成績を残した。
1971年・1972年、チームはパ・リーグ2連覇を達成。しかし、石井の成績は1971年7勝、1972年5勝と低迷。1973年、金銭トレードで太平洋クラブライオンズへ移籍することになった。
初年度は東尾修・加藤初とともに選手層の薄いチームの中で、先発ローテーションの一角として活躍。同年は12勝、防御率3.35の成績を残した。
以降も先発として奮闘したが、太平洋・クラウン在籍6シーズンは全てのシーズンで負け越しとなった。
1978年オフ、球団が西武に譲渡され、チーム再編成に伴い自由契約となった。その後、読売ジャイアンツの入団テストを受け合格。1979年シーズン開幕直前に入団した。
巨人では15試合に登板し2勝2敗、防御率3.69の成績を残したが、1シーズンのみのプレーで現役を引退した。
強心臓を武器に阪急や太平洋・クラウンの先発ローテーションを支えた右腕。若手時代は速球中心の本格派であったが、年齢を重ね技巧派に転身している。
特に晩年には多彩な変化球に加え、時折超スローボールを織り交ぜて打者を翻弄するなど投球術で勝負し、長嶋茂雄からは「これがプロのピッチング。芸術品だ」と言わしめた。
通算189勝と名投手であることは疑いようのない成績を残しているのだが、阪急時代は足立光宏・梶本隆夫・米田哲也・山田久志が、太平洋・クラウン時代は東尾修・加藤初など、華のある投手がいた事からやや影が薄いと言わざるを得ない選手でもある。
通算:22年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 705 | 134 | 29 | 189 | 185 | 3 | --- | .505 | 3168.0 | 777 | 1435 | 1404 | 1219 | 3.46 |
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最終更新:2024/12/18(水) 14:00
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