石井茂雄 単語

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石井茂雄(いしい しげお)とは、元プロ野球選手である。故人。

概要

1939年5月6日生まれ。岡山県出身。

勝山高等学校定時制に進学。在学中、地元で行われた大学野球部の練習試合で大学生相手に打の山を築いたことがスカウトのに止まり、1957年8月、勝山高校中退阪急ブレーブスに入団。

入団からしばらくは故障もあり、なかなか結果の残せないシーズンが続いていた。

1962年開幕投手に抜され47試合に登板したが、4勝9敗と期待には応えられなかった。

入団7年1963年、突如として覚醒。最下位に沈んだチームにおいてチーム最多の17勝(17敗)、防御率2.92の成績を残し、ローテーションの中心として活躍。以降、足立光宏梶本隆夫米田哲也らとともに阪急投手の中心選手となっていく。

1964年、自己最多の28勝を挙げ、シーズン通して最多勝争いを繰り広げたが、小山正明が30勝をマークしたためタイトルには手が届かなかった。

1965年、21勝をマークし2年続けて20勝えの成績を残した。

1967年、勝ちこそ伸び悩んだが、9勝4敗、勝率.692の成績を残し、最高勝率タイトルを獲得。チームパ・リーグ制覇にも貢献した。

1968年には11勝、1969年には12勝をマークし、阪急パ・リーグ3連覇に大きく貢献。

1970年チームは4連覇を逃したが、石井自身は16勝12敗と好成績を残した。

1971年1972年チームパ・リーグ2連覇を達成。しかし、石井の成績は1971年7勝、1972年5勝と低迷。1973年、金銭トレードで太平洋クラブライオンズへ移籍することになった。

初年度は東尾修加藤初とともに選手層の薄いチームの中で、先発ローテーションの一として活躍。同年は12勝、防御率3.35の成績を残した。

以降も先発として奮闘したが、太平洋クラウン在籍6シーズンは全てのシーズンで負け越しとなった。

1978年オフ、球団が西武に譲渡され、チーム再編成に伴い自由契約となった。その後、読売ジャイアンツの入団テストを受け合格。1979年シーズン開幕直前に入団した。

巨人では15試合に登板し2勝2敗、防御率3.69の成績を残したが、1シーズンのみのプレーで現役を引退した。

引退後は野球界から離れ、スナックを経営していたという。

2005年3月28日逝去。享年66歳。

人物・エピソード

心臓武器阪急太平洋クラウン先発ローテーションを支えた右腕。若手時代は速球中心の本格であったが、年齢を重ね技巧に転身している。

特に晩年には多変化球に加え、時折超スローボールを織り交ぜて打者を翻弄するなど投球術で勝負し、長嶋茂雄からは「これがプロピッチング。芸術品だ」と言わしめた。

通算189勝と名投手であることは疑いようのない成績を残しているのだが、阪急時代は足立光宏梶本隆夫米田哲也山田久志が、太平洋クラウン時代は東尾修加藤初など、のある投手がいた事からやや影が薄いと言わざるを得ない選手でもある。

通算成績

投手成績

通算:22年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 705 134 29 189 185 3 --- .505 3168.0 777 1435 1404 1219 3.46

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