細川顕氏(?~1352)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
足利一門の中では庶流もいいとこの、細川氏のさらに庶流。兄弟に細川直俊、細川定禅、細川皇海がいる。
当然他の足利一門同様元弘の乱での足利高氏の鎌倉幕府離反から彼に付き従う。しかし個人的に尊氏からの信任が厚かったようで、後醍醐天皇のもとに密使として派遣されたり、護良親王の鎌倉護送を行ったりと重要な任務を任されている。
中先代の乱で父親・細川頼貞を失うが、その後足利尊氏の下で活躍し、九州落ちの際に四国方面軍の中で恩賞権を与えられ、これを統括する任務にあたった。その後も湊川の戦いをはじめ四国軍を率い畿内を転戦。1338年には高師直とともに北畠顕家を討ち取る軍功を挙げ、侍所頭人に任じられた。
こうした活躍の結果河内、和泉、讃岐の守護職を与えられ、細川一族は一気に躍進したのである。
ところが1347年の楠木正行の挙兵に対し畠山国清と山名時氏と協力して当たるが、教興寺の戦い以降相次ぐ敗戦によって威信を低下。代わって四条畷の戦いでこれに勝利した高師泰、高師直兄弟が台頭していったのである。細川顕氏は河内、和泉の守護職と侍所頭人の役職を取り上げられ不満をためていった。
そのため観応の擾乱ではやや中立よりの直義派として活動し、尊氏を降伏させるなど足利直義勝利の立役者となった。その功績で和泉守護を取り戻し、引付頭人に任じられるなど復権を果たす。しかし足利直義が京都を脱出すると、彼は足利尊氏のもとに残り、以降和平交渉を進めるも失敗。尊氏が鎌倉に進撃した後は足利義詮とともに京都の留守を任され、楠木正儀率いる南朝軍に対抗し、男山八幡を陥落させた。そしてそれからわずか2か月後、病に倒れ死去した。
彼の息子細川繁氏も一色直氏が逃亡してきた後の九州探題につくが、出立の準備中に急死し、以後彼の系統は守護職に就くことはなかったが、細川奥州家としてそれに準ずる扱いを受け続けたのであった。
上記の経歴を見て、直義派勝利の立役者だった顕氏がいつの間にか尊氏の陣営になっていることにあれっ?と思った方はいないだろうか。これについて南北朝マニアの間で有名な逸話がある。
勝利の後、下した相手とはいえ将軍である尊氏に挨拶に行ったところ、顕氏は「降参人の分際で将軍に面会を求めるとは何事か」と門前払いを食らってしまう。繰り返すが、戦いに負けたのは尊氏の方なのである。何を言っているのか分からないと思うが、顕氏も何を言われたのか全く分からず、恐れをなしてすごすごとその場を退散することになってしまった。そしてその後、顕氏は直義から離れて尊氏に接近していくのである。
もちろんこれだけで尊氏に乗り換えたという話でもないのだろうが、あまりにも説明不能の出来事に心が揺らいだのは確かだろう。
ちなみにこの話は洞院公賢の日記に書かれているガチの同時代話である。伝聞なので細部に違いはあるかもしれないが、こんな訳のわからない話が作り話とも思えないので相当真実性は高いと思われる。そのため足利尊氏という人物のわけのわからなさを語る上で、細川顕氏の名もしばしば引き合いに出されることになる。
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最終更新:2024/11/09(土) 05:00
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