中先代の乱 単語


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中先代の乱とは、建武2年(1335年)に起きた北条時行による乱である。

概要

鎌倉幕府滅亡後、散発的に起きていた旧幕府勢力の反乱。その最大規模にして、建武政権崩壊のきっかけ、および南北朝時代突入の端緒となったのが、この乱である。なお、執権北条氏(先代)と室町幕府将軍(当代)の間に挟まれているから、中先代。

ただし、この乱の性格であるが、大体以下の論争が起きている。

この乱って結局何?

  1. 御内人起:山田邦明
  2. 広く関東武士たちを巻き込んだ戦い:鈴木由美
  3. 鎌倉幕府の特権支配層体とした再運動:阪田雄一

太平記が言うように、連動した動きだったの?

  1. そもそも西園寺宗らは実で、連携などない:橋本芳和
  2. 西園寺宗は冤罪でもなんでもなく、状況拠から全部連動している:佐藤進一、鈴木由美

北条時行のバックにいたのって誰?

  1. 伏見上皇:旧説、最近でも深夫等
  2. 光厳上皇永遵嗣、近年の鈴木由美

迎撃軍はどんな存在だったの?

  1. 関東廂番体:一郎
  2. 守護・大将体:阪田雄一
  3. 両者の混成軍:松本一夫、鈴木由美

足利直義って何がしたかったの?

  1. 建武政権の決別:太平記論等
  2. あくまでも政権側としての行動:阪田雄一、鈴木由美
  3. 護良親王は単純に足手まといだっただけ:亀田俊和

要するに

2007年鈴木由美の「中先代の乱に関する基礎的考察」が研究の始まりとも言われるほど最近ようやく検討されるようになった事件であるが、今のところは、以下のような流れの評価に落ち着いている。要するに寄せ集めの軍勢だったので負けるべくして負けたが、足利尊氏建武政権を離反するきっかけとなったことに意義がある、というものである。

  1. 建武政権下で鎌倉将軍府による鎌倉幕府体制の緩やかな復活が進行形だった
  2. そこに得宗流北条氏復活論む与同勢力が
  3. 守護を中心にした鎌倉将軍府軍敗北
  4. 将軍執権の結びつきによる政権立を恐れ、政権側として足利直義護良親王成良親王を帰
  5. 足利尊氏がほぼ勝手に襲来し勝利
  6. 後醍醐天皇もまあ妥協
  7. 足利尊氏9月27日付袖判下文で全に独立ぽいことをしだす
  8. 後醍醐天皇「は?」足利尊氏え?
  9. 地獄の釜の蓋が開く

中先代の乱の伏線

鎌倉幕府滅亡後、建武政権になったわけだが、依然として北条与党の反乱は起こり続けていた。

場所 事件 出典
3年(1333年)12月
~建武元年(1334年)11
州北部 名越時如、安達らが起、皇族・式部卿宮が与同 青森県史料41、42、57、72、『元日記裏書』
建武元年(1334年)4月6月 陸奥 陸奥河合 遠野南部文書
建武元年(1334年)1月7月 北九州 最後の鎮西探題時の猶子・規矩高政、糸田貞義兄弟の反乱 『歴代鎮西誌』、南北朝遺文九州編91号、『太平記
建武元年(1334年)3月8月 北関東 本間氏、渋谷氏、江戸氏、葛西氏北条氏被官の起が相次ぐ 『元日記裏書』、『論』、『将軍執権次第』、『鎌倉日記』『保間記』、神奈川県史料3305号
建武元年(1334年)3月 駿河 反乱 静岡県史料38号
建武元年(1334年)7月 日向 北条氏一族・遠江掃部三郎が挙兵 南北朝遺文九州101
建武元年(1334年)10月 越後 小泉持長、大河将長らが 色部文書
建武元年(1334年)10月
~建武2年(1335年)1
紀伊 北条氏一族・佐々僧正顕宝や湯浅党の六十定尚が 太平記』、『元日記裏書』
建武元年(1334年)12月 美濃・尾 反乱 長門熊谷文書、上総藻寺文書
建武2年(1335年)1月 長門 最後の長門探題北条時直の子・上野四郎金沢将監が挙兵 『師守記』
建武2年(1335年)2月 信濃 反乱 河文書
建武2年(1335年)2月 伊予 重時が挙兵 南北朝遺文中国四国181号、『太平記
建武2年(1335年)2月 備中 反乱 南北朝遺文中国四国123
建武2年(1335年)2月 讃岐 反乱 紫雲山代々旧記』
建武2年(1335年)3月 下野 反乱 府史料、白河石川文書
建武2年(1335年)3月 越後 反乱 色部文書
建武2年(1335年)3月 信濃 反乱 河文書
建武2年(1335年)4月 京都 北条氏一族の高安らが毘沙門堂近辺で立て籠もり 『五大虚蔵法記』

佐藤進一は以下のようにこれらの反乱を評している。

  1. ほとんどすべての反乱が北条氏が守護職を持っていた、または北条氏の旧領で発生している
  2. 反徒にはほとんどの場合北条一族や北条氏人が参加している
  3. その地方土着の族が参加している場合も少なくない
  4. 中央の政治情勢が地方に波及している
  5. 北条氏の旧領で、足利尊氏に与えられた地域に反乱が発生している

ただし、鈴木由美がこれらの反乱を再検討し、以下のように反論している。

  1. 反乱の58.9が、北条氏が守護職を持っていたで起こっている。また北条氏の旧領でも反乱が起きている地域がある。ただし、もともと北条氏は過半数のの守護職を持っていたため、偏りがあるかは断定できない。北条氏が守護の北条氏の旧領で起こった反乱については、必ずしもそのの守護である北条氏の各系と反乱を起こした北条氏の属する系が一致するわけではない
  2. 確認できる反乱全体のうちの過半数に、北条与党が加わっている
  3. 反乱には、北条与党の他にも地方土着の族も加わっている
  4. 陸奥の北部、日向島津荘など、北条氏の旧領で足利尊氏に与えられた他地域で反乱が起きている。北条与党の反乱が、新領尊氏に対する反感のために起きたものかは断定できない

鈴木由美の検討に従うと、北条氏建武政権に不満を抱く武士を糾合する権威として機した、というわけである。

とはいえ、これらの反乱は相互に全く連携しておらず、散発的に発生しては各個撃破されていったのである。

中先代の乱

『小槻遠記』によると、建武2年(1335年)6月、代々関東申次を務めていた西園寺宗が太上天皇光厳上皇?)を奉じて挙兵し、北条高時北条泰家北条時興)を京都大将北条時行関東大将名越時兼を北陸大将として起する計画が発覚した。

宗の乱は未然に防がれたが、北条時行諏訪頼重諏訪時継子らに擁立され信濃で挙兵。ただし、この挙兵は『論』の7月と、『法問答正義抄』の6月の2通りの説がある。ただし、鈴木由美もあくまでも留保しており、阪田雄一にやっぱり7月でしょ、といわれているので、大体7月くらいで。

ここから、中先代の乱の時系列を図にしてみる(鈴木由美「中先代の乱に関する基礎的考察」をもとに作成)。

日時 できごと 典拠
建武元年(1334年)
11月19日
中務権大輔北条時行?)が軍勢催促 南北朝遺文関東編166号
11月30日 中務大輔北条時行?)が軍勢催促 南北朝遺文関東編177号
建武2年(1335年)
3月
常岩北条で反乱 河文書
3月8日 常岩北条の反乱鎮圧 河文書
3月16日 府中の反乱のために守護・小笠原貞宗が発行 河文書
6月?日 信濃国司下向 河文書
6月17日 持明院統の上皇京極殿に移される 小槻遠記
6月22日 西園寺宗ら捕らわれる 小槻遠記
6月23日 北条時行挙兵? 問答正義
6月24日 西園寺宗の陰謀露見により祈祷 門葉記
6月26日 西園寺宗らの罪名定 小槻遠記
6月27日 西園寺宗、流罪と決定す 小槻遠記
7月2日 下静謐のために祈祷 門葉記
7月13日 河助房ら、小笠原貞宗のもとに到着 河文書
7月14日 信濃守護小笠原貞宗保科三郎等と山郷八幡河原・篠井河原四宮河原で合戦 南北朝遺文関東編261号
7月15日 行方八幡河原福井河原村上河原で合戦。22日まで戦い続ける 南北朝遺文関東279
諏訪頼重信濃国司を攻める。信濃国司自害 金勝院本『太平記
7月18日 諏訪頼重ら、上野に侵攻 金勝院本『太平記
四郎上野で時行方に敗戦 太平記
渋川義季武蔵久米で時行方と合戦。その後、義季女原へ向かう 金勝院本『太平記
武蔵原合戦
岩松経家渋川義季が戦死
小手指河原今川範満が戦死 太平記
府中小山が戦死 論、元日記裏書
7月22日 足利直義鎌倉を出て武蔵井出沢で時行方と戦う
7月23日 足利直義鎌倉を出る 神奈川県史料3220号
7月24日 武蔵鶴見合戦
佐竹秀義が敗北
佐竹義直討死
神奈川県史料3296号
北条時行鎌倉に入る 神奈川県史料3220号
越後大面荘で小諸氏が 実廉申状
大体この辺 足利直義方が護良親王を殺 太平記
大体この辺 大江時古、成良親王と帰 日記裏書
7月28日 諏訪頼重ら追討のために祈祷 続史愚抄
8月1日 信濃起により祈祷 柳原記録
信濃望月にて合戦 河文書
8月2日 足利尊氏を出る
西園寺宗らられる 尊卑分脈
8月3日 鎌倉大仏殿を大が襲う 太平記
日野市史料103
8月9日 橋本合戦 神奈川県史料3231号
陸奥結城盛広が中先代の乱に与し、所領が結城宗広に預けられる 白河結城文書
8月12日 小夜中山合戦 神奈川県史料3231号
北条時行が寺領安堵 南北朝遺文関東編265号
8月13日 結城盛広、義らの拠る州長倉にて合戦 福島県史料47-九四号
8月14日 駿河府合戦 神奈川県史料3231号
8月15日 三浦時明が鶴岡八幡宮に寄進 南北朝遺文関東編269号
8月17日 箱根合戦。大将三浦若狭判官 神奈川県史料3231号
8月18日 相模川合戦
今川らが戦死
神奈川県史料3231号
8月19日 堂・片瀬原合戦
佐々木時綱らが負傷
神奈川県史料3231号
諏訪頼重・時継ら鎌倉大御堂で自害 神奈川県史料3231号
太平記
8月28日 武石胤顕が木山にこもる小平氏らを退治資するために、賀盛に軍勢催促 磐城飯野文書
8月のどこか 北陸徒放棄(名越時兼?) 神奈川県史料3255号
時期不明 南部政長津軽山辺合戦で勲功をあげる 遠野南部文書
源氏南部八戸
時期不明 河野通任が中先代の乱に呼応 河野系図
9月21日 越後で悪党人退治のため、色部一族に軍勢催促 色部文書
9月22日以前 村上信貞が坂木北条攻略 河文書
9月25日 足利尊氏が恩賞をばらまきだす
9月30日 信濃国司継が下向し、小笠原氏と横川攻撃 河文書
卿補任

経過

上の表だが、7月14日に挙兵した信濃内の戦乱は北条時行方の敗戦濃厚でじりじりと時間が経っていった。しかし、この間急に関東北条時行軍が現れる。つまり、信濃の挙兵は陽動であり、本隊が鎌倉に向かっていたのである。

一方で小笠原貞宗もこの反乱を頻発する一連の反乱のひとつとみなし、尾を抜けて京都に向かう可性を想定してしまった。しかし、この油断によって鎌倉への連絡が一切なく、反乱軍関東に向かってしまった、という結果論である。

反乱側は7月18日には上野へ侵攻し、足利直義軍の渋川義季岩松経家小山大将格を多数討ち取るレベル膚なきまでに打ち破り、24日に鎌倉入りした。

この時期に足利直義護良親王を殺し、成良親王を送り返している。とはいえ、この時点では建武政権の離反を考えていたというよりも、あくまでも不分子としてとらえられている前将軍だの幼い王だのを擁立されるとまずい、という極めて現実的な判断だったとされる。あくまでも、負けっぱなしだった鎌倉将軍府の長としての抵抗だった、ということになる(ソース太平記くらいしかないのではっきりとは言えないけど)。

なお、北条時行方であるが乱中における発給文書の年号は建武ではなく正慶である。つまり、建武政権そのものを否定していたのだ。とはいえ、この点も、足利直義に吏僚層全員連れてかれていたことによる、妥協ともいえなくもない。

こうして、足利直義の惨敗に対し足利尊氏8月2日に出立。今川頼基らを失ったものの破の勢いで北条軍に勝ち続け、諏訪子らは自害を遂げる一方、幼い北条時行は離脱し、足利軍はあっけなく鎌倉を奪還した。ちなみに、後日反乱側だった三浦時継一門の乗ったが熱田に漂着して大宮に捕まったことから、脱出は路だった可性がある。

参戦勢力

いたことが何らかの記録に残っている人間のみ(足利尊氏軍には大体の人間がいたとは思うが…)。

※ほぼ確実に死んだ人間には×、負傷者にはを記載

反乱側 鎮圧側
氏名 補足 氏名 補足
本来関わってたっぽい人たち
太上天皇光厳上皇?) 持明院統法皇
西園寺宗× 西園寺 西園寺
橋本俊季 西園寺傍流
日野資名
日野× 左衛門佐日野資名の子
三善文衡 法師、西園寺
中原 散位、マジか不明
北条泰家 得宗流北条氏起失敗後に逃走し、翌年に信濃
名越時兼 名越北条氏、おそらく北陸起したっぽい(神奈川県史料3255号
本戦
北条時行 得宗流北条氏 足利直義
名越式部大輔 名越北条氏…だが太平記にしか出てこない 渋川義季× 足利直義関東廂番
備前式部大夫入× 名越北条氏 四郎
次郎× 名越北条氏 岩松経家× 飛騨守護、関東廂番
極楽 極楽北条氏…だが論にしか出てこない 小山× 下野守護
塩田陸奥八郎 極楽寺流北条氏、捕らえられる 佐竹貞義 常陸守護
大仏 大仏北条氏…だが論にしか出てこない 佐竹義直×
諏訪頼重× 御内人 細川頼貞× おそらく足利義詮付き、鎌倉日記にしか出てこない
諏訪時継× 諏訪頼重息子 今川範満× 太平記にしか出てこない
諏訪次郎 ?、捕らえられる 足利義詮 ぶっちゃけ幼児なのでいただけだが追記
安保潭の子 御内人 成良親王 ぶっちゃけいただけだが追記
渋谷の一族 御内人 大江時古 成良親王付きで、彼とともに帰
三浦時明× 関東廂番、なお佐原氏系統なのでほぼ御内人 入江 敗走する足利直義軍に合流
三浦時継× 御内人 淵野辺賀守? 太平記に出てくる護良親王の殺
工藤四郎衛門 御内人
蛭河太郎 御内人児玉
塩谷民部大夫 御内人宇都宮
上師胤 千葉氏傍流、北条氏の被官?、降
千葉二郎衛門 千葉氏?、降
大須賀四郎衛門 千葉氏傍流、御内人?、降
天野 関東廂番北条氏側近?、降
伊東 関東廂番北条氏側近、降
天野一族 宇都宮能登を討ち取り降
宇都宮能登× 宇都宮氏?
清久山 金沢北条氏の被官?
那波政 関東廂番大江氏の内落した系統
滋野一族 信濃神党
?貞宗
?高泰
六郎 ?、降
五郎 ?、降
松野二郎 捕らえられる
松野五郎 捕らえられる
松野五郎 捕らえられる
信濃戦線
保科三郎 小笠原貞宗 信濃守護
四宮衛門太郎 河助房 信濃の神党のひとつ
河倫房
河長房
河助保
清原真人× 信濃
足利尊氏の迎撃軍
足利尊氏
今川三郎×
今川×
今川範国
河ばたの人々×
上野頼勝
吉良満義
仁木義煕
細川和氏
上杉重顕
高師泰
高師兼
高師久
大高重成
土岐貞頼×
土岐頼明×
土岐頼明×
佐々木壱岐五郎衛門尉(長信?)×
佐々木時綱
佐々木時綱息子
佐々木導誉
宇都宮貞宗
宇都宮貞泰
宇都宮高貞
赤松貞範
千田太郎 千葉氏一族
大須賀衛門 千葉氏一族
長井
長井衛門蔵人
二階堂行脩×
二階堂行登×
安保
小笠原頼氏×
小笠原頼氏子×
小笠原長頼?×
小笠原長頼?子×
片山兵庫
名盛員× 三浦
名高盛× 三浦
大類五郎衛門 児玉
烟田幹宗 常陸平氏
烟田時幹 烟田幹宗息子
小野寺顕通 8月19日に合流
富来忠茂 豊後の武士
松本氏貞×
味原三郎×
味原出雲権守
野実廉 後醍醐天皇側室・野廉子の
山貞守 野実廉配下
香川 野実廉配下
その他
結城盛広 陸奥で連鎖反応的に挙兵
結城 陸奥で連鎖反応的に挙兵
小田 陸奥で連鎖反応的に挙兵
石川 陸奥で連鎖反応的に挙兵
河野通任 伊予で呼応したらしい

その後

ただし、こうして鎮圧されると、後醍醐天皇としては勝手に行ったとはいえ、足利尊氏軍事力を認めざるを得ず、小山息子小山氏への継承を認めたり、大友貞載への綸旨を出したりと、反乱鎮圧のための協力を惜しみなくしていた。

ところが、9月27日足利尊氏が勝手に恩賞を与えだす。というか、そもそも反乱鎮圧なのに吏僚層等組織丸々連れて行っていたので、足利尊氏としては下向したはじめから武政権やっちゃおっか的なノリだったと思われる。

が、これが盛大に後醍醐天皇の反感を買い、新田義貞軍が派遣され、足利尊氏がひきこもるのだが、箱根之下の戦い以後はこの記事で触れると長くなるのでパス!

一方で、当初の計画とは異なり北条軍は各個撃破されてしまい、建武3年(1336年)2月には北条泰家が再度信濃で挙兵するも、3月鎌倉斯波家長に撃退されている。この鎌倉合戦であるが、かなりの戦だったようで、既に西戦闘している足利兄弟に代わって吉良貞家斯波家長らの総力戦が展開されたようだ。

ただし、信濃はこの乱以後も北条氏方が抵抗を続け、次第に南方に向かっていく。

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  • 2 ななしのよっしん

    2021/08/29(日) 19:52:48 ID: N/P1ZaUpxD

    尊氏「が聞こえる…私にになれというが…」
    キュピーン天皇「裏切ったな尊氏!」

    実は尊氏に潜んでいた「何か」が動乱の世をもたらすために尊氏の体を借りていた…とかそういう理由付けになったりして

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  • 3 ななしのよっしん

    2023/06/18(日) 18:48:36 ID: H7e6X/LnY5

    逃げ若見てから室町に興味湧いてきたけど、大河でもう一度太平記やる流れ来るんじゃねえかな?

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  • 4 ななしのよっしん

    2023/06/18(日) 18:50:33 ID: Y6VsTUKC6S

    タブーを再び乗り越えられるかな?

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