足利直義(1307~1352)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将であり、室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟である。
足利尊氏の弟。高師直との対立に引きずられ、兄・足利尊氏と決別に至った悲劇の人物。
清和源氏の中で数少ない、鎌倉幕府である程度の地位を築いていた足利氏の出身である。とはいうものの、鎌倉時代の足利氏については積極的な評価と消極的な評価に分かれており、北条氏と結びつきを深めながら何とか生き残りつつ、数少ない大領主型御家人として整った家政機構と清和源氏の象徴、という評価の難しい存在であった。
足利直義は足利貞氏の三男として生まれた。はじめは北条高時からつけられた足利高国という名前であったらしい。ただでさえ北条氏から迎えた正室との子・足利高義がいたことに加え、上杉氏出身の側室から生まれたすぐ上の兄・足利高氏の存在から、庶子として歴史の表舞台に出ない、つまり割と自由気ままな生活を送っていたようだ。
しかし状況は一変する。後継者候補であった足利高義の早世である。高義には子がいたが足利貞氏が当主として復帰し、北条氏に気を使いつつも北条氏と縁もゆかりもない足利高氏を後継者候補とせざるを得ず、彼に北条氏の赤橋登子を嫁がせた。この結果足利直義も1326年、それまで無位無官だったにもかかわらず従五位下・兵部大輔に任じられており、兄高氏を支える存在として歴史の表舞台に出ざるを得なくなったのである。
足利氏は置文伝説という倒幕を行う理由付けなどがさまざまされてきたが、そもそも北条氏とは協調路線にあり、実際には京都の公家出身である母方の上杉氏の影響や現実的な状況判断で討幕を行ったといわれている。新田一門の行動も足利一門としての行動であったといわれる昨今、足利氏は倒幕の第一の功労者として建武政権で扱われることとなった。
足利氏はそれまで考えれなかったほどぼ莫大な恩賞を与えられ、足利直義も従四位下まで官位を上げ相模守になったほか、遠江も知行国として与えられることとなる。加えて直義は、成良親王を頂点とする鎌倉将軍府の事実上のトップとなり、建武政権で活躍の機会を与えられたのである。
しかしここで中先代の乱が起きる。岩松経家、渋川義季、今川範満、小山秀朝といった国司・守護・知行国主といったクラスの大将たちも瞬く間に討ち死にし、直義は混乱の中ちゃっかり護良親王を殺害しつつも、成良親王を逃がし三河まで撤退した。ここで尊氏と合流し鎌倉を奪回。ここで直義はついにある決意をする。建武政権に代わって新しい幕府を設立することである。足利尊氏も、とにもかくにも関東を落ち着ける必要性があり、帰京命令を無視して無断で恩賞を与え始めた。
これに怒らない後醍醐天皇ではなかった。足利尊氏、足利直義は朝敵とされ、新田義貞率いる官軍が進撃してきたのである。尊氏は後醍醐天皇から受けた恩から、いまいち優柔不断な態度を見せつつも、足利直義をはじめ積極的な行動に移そうとする臣下におされるまま反撃を始める。足利直義や高師泰が主体となった矢作川の戦いでいったん敗北しつつも、尊氏はようやく出陣を決意し箱根・竹ノ下の戦いで新田軍に勝利。そのまま京都争奪戦へと持ち込むが、北畠顕家の突然の来襲で九州まで撤退することとなる。
ここでようやく持明院統の院宣を手に入れ、多々良浜の戦いで圧倒的な戦力差にもかかわらず勝利し、湊川の戦いで楠木正成を打ち取り、ついに再上洛を果たす。数々の戦場では両者の心理を表すかのように、足利直義が先陣を切り、足利尊氏は後ろの本陣に構えていた。
こうして1336年、北朝が成立し、成良親王を次の皇位につける条件で後醍醐天皇と和睦。室町幕府も正式に発足したと思った最中、後醍醐天皇が脱出し、南朝が成立。南北朝時代の始まりである。幕府ではあくまでも尊氏を上位としつつも、かなりの権限を直義が掌握することとなり、「三条殿」と呼ばれる立場にあった彼は厳格に政務に取り組んでいった。
しかし、執事としての立場から足利尊氏を補佐していた高師直の権限も拡大し、足利直義の権限とバッティングするようになる。しかし、この時点では両者の対立はまだ表面化しておらず、何とか妥協を図りつつ、中央では穏やかな日々が続いていた。養子・足利直冬や実子・如意王の誕生も彼を積極的な行動に移らせる原因となったかは、はっきりとしたことは言えない。
しかしここで事態は急変する。1347年の楠木正行の挙兵と1348年の四条畷の戦いによる、高師直、高師泰の大勝利である。この結果高一族の権勢が増し、幕府内部の不協和音は急速に拡大する。そして足利直義は側近の上杉重能、畠山直宗、そして高僧であった妙吉の讒言を聞いてしまう。恩賞を適切に与えてくれるだろうという直義への期待も、彼の派閥を作る要因となった。
そして高師直の暗殺が失敗に終わると、直義は先手を打ってしまった。高師直の執事罷免である。当初は高師泰を代わりにしようとしたものの、結局彼の息子・高師世がこれにあたる。しかし、実際の幕政は直義の独壇場であった。
ところが、1349年8月、それまで南朝と戦っていた高師泰が畠山国清に役目を譲り、入京。師直派と直義派の両者が軍勢を結集させる。しかし高師直の方が圧倒的優位に立ち、師直は執事に復帰。上杉重能、畠山直宗は処刑され、足利直冬は長門探題を罷免され九州に追い落とされる。そして関東から足利義詮が入京して尊氏との二頭体制となり、代わって足利基氏が関東に向かった。さらに足利直義は出家に追い込まれた。師直の見事な勝利であった。
しかし、ここでとんだ計算違いが起こる。九州に追い落とされた足利直冬が予想外に健闘し、台風の目になってしまったのだ。これに対し高師泰が出兵するが、石見から先に進めず、ついに尊氏らが出陣する事態となる。好機はまさに今であった。なんと足利直義は京都を脱出し、南朝に降伏。さらに畠山国清が直義派についてしまう。直義派は石清水八幡宮へ進出し、情勢の変化を見て取った諸将も続々直義派へと鞍替えしていく。
そして始まった尊氏軍との戦いであるが、このころから足利直義は、まるで建武政権への離反のころの尊氏のように次第に消極的な態度をとっていく。とはいえ、桃井直常との京都争奪戦に足利尊氏は勝利したものの、凋落はとどまらず、尊氏に従うのは一部の将だけであった。さらに奥州では尊氏派の畠山国氏が敗死、関東では同じく尊氏派の高師冬が敗死し、尊氏派は四面楚歌に陥ってしまう。
そして打出浜の戦いでの直義派の勝利、その後の武庫川辺鷲林寺前での上杉重季による高一族の惨殺、によって観応の擾乱の第一幕は直義派の勝利に終わった。
しかしここで足利直義の息子・如意王が亡くなり直義はますますやる気をなくしてしまう。直義による人事、官職の補任は彼に従った諸将を満足させるに及ばず、細川顕氏、大高重成などはこの時点で尊氏派へと近づきつつあった。一方の尊氏は、ついに恩賞を与える権限を和睦の際に直義に譲ることがなかった。何が勝利につながるか気づいたのである。
足利直義の孤立が深まる中、赤松則祐、佐々木導誉が、赤松宮興良親王を奉じて北朝を離反する。足利尊氏は則祐を、足利義詮は道誉を狙い京都から進軍した。しかしこれは直義方を攻め落とす策だったのである。これに気づいた石塔義房、桃井直常の進言を受け足利直義は北陸へ逃走する。一方足利尊氏は南朝との和睦交渉、いわゆる正平の一統を行う。近江での戦いでの尊氏派の勝利で、畠山国清や斯波高経といった諸将は次第に尊氏側に集まり始め、直義は鎌倉へと逃走した。
そして運命の薩埵山の戦いである。直義はもはや何の積極性も見せず、尊氏方の宇都宮氏綱、薬師寺公義率いる下野・武蔵連合軍の活躍もあり直義派は自壊。同じく尊氏方の仁木義長は勝ちに乗じて伊豆国府を攻め、ついに足利直義は降伏したのである。そしてそのまま足利基氏の元服を見届けると、1352年2月26日という高一族の惨殺からちょうど丸一年後に生涯を終えるのであった。
直義派の諸将はその後も南朝に属し抵抗を続ける者もおり、ますます南北朝時代のカオスが進んでいくのだが、それはまた別の物語である。
掲示板
16 ななしのよっしん
2023/08/23(水) 09:43:53 ID: /XAQxtm0TU
直義もブラコンだけど尊氏もちょっと常軌を逸したブラコンで弟さえ生きてりゃいい感が凄い
17 ななしのよっしん
2023/09/13(水) 06:21:53 ID: oXanaFviox
当時出家していたとはいえそれまでの経緯や立場を考えれば
よく南朝に降伏なんて出来るなと思う。
こいつも兄貴も肝が据わっているというかなんというか。
18 ななしのよっしん
2024/02/07(水) 08:56:55 ID: 1zzvlk9QM/
尊氏がこの人を冷徹に処断できなかったのが観応の擾乱のぐだぐだっぷりの一因でもあると思う
最後まで和睦の道を探ってた気配もあるし
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最終更新:2024/11/09(土) 10:00
最終更新:2024/11/09(土) 10:00
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