観応の擾乱 単語

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観応の擾乱とは、室町時代南北朝時代おこった戦乱の一つである。

概要

開戦前夜

足利尊氏後醍醐天皇に背いたことで始まった南北朝時代は、その初期に南方の有力武将が次々と死んでいったことで、北有利となった。延元4年/応2年(1339年)には後醍醐天皇したことで南方の心理的支柱もなくなった。

然し、北方内部でも、尊氏のである足利直義を中心とする閥と、尊氏の執事である高師直を中心とする閥が出来上がっていた。当初、直義がほぼ全ての幕府政務を担当していたが、南らが逼塞するに従い、それを成し遂げた師直らの軍功が無視できなくなっていた。この状況下で、直義は尊氏に迫って師直の執事職を罷免させることに成功したが、今度は師直が軍事を持って、直義を出に追い込んだ。更に、直義の武将二人が討ち取られたことで両の緊は一挙に高まった。

高一族滅亡

こうした中で、尊氏の実子で、直義の養子である足利直冬中国地方次いで九州で勢を拡大。これに危機感を覚えた尊氏は討伐を図るも、その隙を突いた直義が京都を脱出し、正5年/観応元年(1350年)11月20日挙兵。関東でも直義の武将が実権を握った。尊氏は光厳天皇から直義追討を得るも、直義は南に降して対抗姿勢を維持した。翌年には京都が直義によって制圧され、尊氏は高師直らの出を条件に和議を行った。だが、高師直出頭の最中に謀殺される。直義は復帰し、直の地位は尊氏認となったものの、両閥の政治対立は残っており、擾乱第二幕の用意はなされていた。

直義の滅亡

和議成立以後、尊氏は自の武将へ恩賞、処罰を有利にするとともに、直義の武将を懐柔していった。京都の情勢は日に日に尊氏有利へと傾き、尊氏、義詮が京都を挟撃しようと出したことで再度戦乱が起こる。を制した尊氏であったが地方は未だ直義有利の地域が多く、直義と南の分断を図って、南から直義への追討を得るべく、自身が南事実上の無条件を行った。この正一統(しょうへいいっとう)を成し遂げた尊氏は関東に進撃して直義を死亡させる。また、直も直義の死亡によって九州を失った。

擾乱の収束

だが、尊氏は自身の出中に増長した南によって軍事制圧されてしまう。京都を奪回したものの、南への降の際、皇位は南に任せるという項があった上、光厳上皇上皇、崇上皇太子直仁王に加え三種の神器まで奪われた尊氏は自身も征夷大将軍位を失っていた。辛うじて厳・明の生広義門院を治の君と見做し、後光厳天皇即位にこぎ着けたものの、北及び尊氏方の正当性や権威を大いに失うこととなる。

更に、旧直義の不満は残存しており、その一つであった山名氏は正8年/文和2年(1353年)に南と合して京都を制圧する。京都は後に奪回するが、以後も、北に対し権を失った不満分子が、南方と手を組むという状況が何度も繰り返される。

また直は石見長門で勢を維持しており、直が南方、反尊氏と手を組んだことで、正10年/文和4年(1355年)に京都三度落とされる。これを北が制圧したことで、直は逼塞を余儀なくされ、擾乱はここに収束を見る。だが、この争いの間に受けた傷がもとで正13年/延文3年(1358年)に尊氏は死亡した。南北朝の統一という大きな課題は義詮に渡されることとなった。

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最終更新:2024/04/20(土) 10:00

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