跡部勝資 単語

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アトベカツスケ

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跡部勝資(?~1582)とは、戦国時代の武将である。

概要

武田勝頼の側近筆頭として、甲陽軍鑑での奸臣イメージが強い人物。とはいえ史実ではそこまででもなく、最期を共にした忠臣の一人であった。

どちらかといえば武田勝頼期に頭を現した人物で、武田信玄の傅役・跡部の甥というのは甲陽軍鑑くらいがソースよくわからない伝承。武田の残存史料の中では最も多くの朱印状を残していることから、割と何でもやらされてた吏僚層の人物である。

甲陽軍鑑などを除くと、確実な初見は永9年(1566年)であり、既に武田信玄の側近だったことが明らかになる。甲陽軍鑑には原胤とともに奏者だったとあるが、史実的にもすでに何でもやらされる奏者だったようだ。また、北条高広・北条子との交渉や、上杉謙信との和北条氏政との同盟やら条件やらで拒絶する役回りなど、外交にまで携わっている。おまけ向きまで取り仕切り、本当に武田の何でも屋だったのである。

この傾向は武田勝頼期に加速し、駿河方面への南役、高天神攻め時の禁制発給といった役を担う。こうして甲陽軍鑑では長坂光堅とともに戦論を唱えて長篠の戦いの大敗を招いた戦犯扱いされていったのであった。

これが事実かどうかは別として、武田勝頼仁科盛信も勝頼へのルートにこの2人を選んでいるなど、武田勝頼の側近中の側近であったことは間違いない。とはいえぶっちゃけ以後も外交面で活躍し、赤井直正への連絡や、御館の乱介入時の和交渉なども彼が担った。なお、この時多数の賄賂を得ていた、というのは甲乱記の記述なので、差し引く必要がある。

以後も毛利輝元との交渉や、甲佐同盟の取次ぎも担うが、武田勝頼の領織田信忠軍の侵攻で崩壊。甲陽軍鑑では敵前逃亡したとされるが、信長公記によれば、武田勝頼に従って討ち死にしたようだ。なお、甲乱記でも討ち死には変わらないが、土屋恒から戦いの際にこれまでの彼を非難されたという。

子息・跡部信業の系統は上野国衆和田を継ぎ、別の子息・跡部勝の系統が続いていった。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける跡部勝資の力一覧。

最近政治が上がって普通に活躍できるようになった。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 47 政治 40 33 野望 56
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 戦闘 智謀 政治 野望
天翔記 戦才 104 智才 108 政才 106 49 野望 44
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 39 戦闘 23 智謀 33 政治 42
世記 采配 17 智謀 25 政治 33 野望 30
蒼天録 統率 15 知略 26 政治 34
下創世 統率 13 知略 27 政治 32 教養
革新 統率 15 武勇 30 知略 58 政治 36
統率 15 武勇 20 知略 58 政治 78
創造 統率 23 武勇 35 知略 58 政治 75

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