である。この記事では1.について説明する。
白い髭をたくわえ旧式の片眼鏡をかけた老軍人で、グレゴール・フォン・ミュッケンベルガーより年長、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトと半世紀の年齢差があるとされることから、リヒャルト・フォン・グリンメルスハウゼンと近い年の生まれと考えられる。
フリードリヒ4世時代、少なくとも帝国暦486年にはすでに帝国軍三長官の一柱たる軍務尚書の座にあり、クロプシュトック侯討伐のさなかに発生したミッターマイヤー少将とブラウンシュヴァイク家とをめぐる一連の事件の対処にあたっている。
帝国暦487年、難攻不落のイゼルローン要塞が陥落すると、宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガー元帥、統帥本部総長シュタインホフ元帥とともに責任をとって帝国宰相代理クラウス・フォン・リヒテンラーデに辞表を提出。慰留も拒否する。しかし、後任と目されたラインハルト・フォン・ローエングラム元帥が、いずれの地位も望まず逆に「三長官をお咎めなきよう」ととりなしたことで、エーレンベルクもそのまま続投することとなった。
むろん代償が無かったわけではなく、一年のあいだ俸給を返上し戦没者救済年金にあてる処分とともに、エーレンベルクらはラインハルトに借りを作るかたちとなり、またイゼルローンからの逃亡者として糾弾されていたパウル・フォン・オーベルシュタイン大佐の免責とローエングラム元帥府への転属を承諾せざるを得なかった。
さらに、俸給返上の一年も経たぬうちの帝国暦488年4月、エーレンベルクはリップシュタット戦役勃発を控えて帝都中枢を抑えんとしたローエングラム元帥の命令によって拘束の憂き目にあうことになる。その後の処遇は不明。軍務尚書職は三長官を兼任することとなったローエングラム元帥が継いだ。
厳格な保守主義者であり、拘束された際には銃を持って執務室に乱入したビッテンフェルト中将を痛烈に糾弾した。だが、その返答によって自身とその守ってきた体制の無力さが顕にされた際には肩を落とし、またイゼルローン陥落時に辞表を提出し慰留を固辞するなどといった軍人としての潔さも持ち合わせている。
門閥貴族の出身であり、その考え方は貴族としての枠を越えることはなかったが、それでも職業軍人として、あるいは公人としての良識をわきまえていた。事実、前述したミッターマイヤー少将の件では、軍務尚書としての立場と責任のもとに、ミッターマイヤーのとった行動(非戦闘員に暴行を加えた貴族将校の即時射殺)はあくまで軍規に則ったものであって非難することは出来ないとはっきり宣言している。
しかし彼の政治的能力の高さを示すのは、その後の事件処理の方法である。
第一に、射殺された貴族の親族でありミッターマイヤーを糾弾する最先鋒であるオットー・フォン・ブラウンシュヴァイク公爵に対しては、青年貴族の暴走を止められなかったことを暗に非難しつつ、クロプシュトック侯討伐の結果与えられるはずの元帥位をちらつかせて懐柔。「公的には『なにもなかった』ことにし、遺族の親族にはそれとない復讐の機会を与える」という形で納得させた。
第二に、その「復讐の機会」を与えるため、宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガー元帥にラインハルトを次の戦いに参加させることを提案。「『金髪の孺子』は叛乱軍が勝手に始末してくれる。そうならず善戦してもそれはそれでミュッケンベルガーの面目が立つ」と説得する。
そして第三に、いつのまにやらミッターマイヤーの代理人に収まっていたラインハルトを呼び出し、事件の解決法として、ミッターマイヤーの「軍の和と協調を乱した」罪をラインハルトの下での戦功によって贖わせるよう指示。最高機密である次の出征の計画をあえて明かして納得させ、事態を平穏の内に収拾した。
これらの処理は、あわよくば戦場でラインハルト、ミッターマイヤー、そして復讐者までが露と消えることすら期待した悪辣なものであり、ラインハルトが戦死した場合の責任を押し付けられたことに後に気付いたミュッケンベルガーに「あのくたばりぞこない」と悪罵されるほどであった。
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最終更新:2024/05/05(日) 15:00
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