99年、フェブラリーステークス。
英雄は、東北から来た。
日本競馬史上ただ一頭、地方から中央を制した馬。メイセイオペラ。“栗毛の来訪者”。
時代は外から変わっていく。
メイセイオペラ(Meisei Opera)とは、1994年生まれの競走馬。公営競馬関係者とファンの夢を叶えた名馬である。
馬名は冠名(当初のオーナーだった小野寺良正氏とその妻の明子氏の名前を1文字ずつ取ったもの)+父*グランドオペラの一部から。
主な勝ち鞍
1997年:東北優駿(地方重賞)、不来方賞(地方重賞)、桐花賞(地方重賞)
1998年:マイルチャンピオンシップ南部杯(GI)、マーキュリーカップ(GIII)、シアンモア記念(地方重賞)、みちのく大賞典(地方重賞)、北上川大賞典(地方重賞)
1999年:フェブラリーステークス(GI)、帝王賞(GI)、シアンモア記念(地方重賞)、みちのく大賞典(地方重賞)、北上川大賞典(地方重賞)
2000年:みちのく大賞典(地方重賞)
概要
父*グランドオペラ、母テラミス、母父*タクラマカンという「何ですか?どこの馬ですか?」的な血統。ただし、*グランドオペラは1戦0勝だが父はニジンスキー、母はカナダ年度代表馬グローリアスソングということで血統自体は超一流である。
一方のテラミスは岩手競馬で走った馬だったが、2勝しかしておらず、繁殖入りの際には引き受け先に苦労するほどだったという。種付け相手に*グランドオペラが選ばれたのは、種付け料が安かったからという極めて散文的な理由であった。
メイセイオペラは生まれた時には「どうしようか」というほど馬体が小さかったのだが、昼夜放牧を試したら立派に育ち、中央競馬から声が掛かった程だったという。しかし、水沢競馬場の佐々木修一調教師が是非にと懇願して半ば強引に水沢競馬場に入厩させてしまった。
デビュー戦こそ期待通りに勝ちあがったメイセイオペラだったが、この1ヶ月後に小野寺良正オーナーが死去。一時は別の馬主に売却の話があったようだが結局未亡人の明子氏が馬主を継ぐ(名義は当初から有限会社明正商事で変わらず)。
その後は馬の若さが出てしまい勝ちあぐねるが、2歳終わりになって競馬を覚えたメイセイオペラは3連勝し、この年を8戦4勝で終える。
3歳になっても連勝を続け、かつての「岩手の怪物」トウケイニセイの再来と呼ばれるようになったメイセイオペラ。ところが、ダート交流三冠(ユニコーンS、ダービーグランプリ、スーパーダートダービー)に挑戦しようとした矢先に頭蓋骨骨折の重傷を負い、ローテーションは白紙になってしまう。復帰戦のダービーグランプリでは10着、続くスーパーダートダービーも10着で心配されたものの、大晦日の桐花賞で古馬を一蹴し復活を遂げた。
岩手では無敵となったメイセイオペラは、ダート最強馬を目指して遠征を志す。ところがここに立ち塞がったのが当時の地方最強馬アブクマポーロだった。5歳を迎えて覚醒したこの南関東の怪物と川崎記念で初対決を迎えるも、8馬身半も離れた4着に凹まされる。以降、メイセイオペラとアブクマポーロの対決は「AM対決」と呼ばれてダート戦線屈指の名勝負数え歌となるのだった。
福島の民間育成施設に放牧に出されたメイセイオペラはここで馬体がもう一回り大きくなり本格化。シアンモア記念を6馬身差圧勝し、勇躍大井の帝王賞へ向かった。勿論アブクマポーロに雪辱するためである。ここではアブクマポーロの鬼のような脚に屈し3着に敗れたが、着差は1馬身半+3/4と相当縮まっていた。
地元では最早敵なしで、中央馬でさえ相手にならない。しかし今度はアブクマポーロが岩手にやってきたのである。マイルチャンピオンシップ南部杯で3度目の対戦を迎えたが、メイセイオペラはここを逃げ切りであっさり勝利。アブクマポーロに初めて先着した。この時アブクマポーロは放牧と勘違いしていたと言われているが、それを抜きにしても有意義な結果だったことは間違いないだろう。
ところが大井で行なわれた東京大賞典ではアブクマポーロにまた負けて2着。どうしてもアブクマポーロが目の上のたんこぶになりつつあった。
翌年、アブクマポーロが川崎記念に向かうのを見て、ほとんど同時期に行われるフェブラリーステークスに出走することにしたのは、中央で走らせてみたかったから、メンバーが手薄だったからということ以上に「アブクマポーロがいないから」ということが大きかったのではないかと思われる。それが歴史を動かす選択になるとは……。
手薄と言っても桜花賞馬キョウエイマーチをはじめ、ワシントンカラー、ビッグサンデー等のGIの常連やダート路線の有名馬、ベテラン帯同馬のドージマムテキに、8年前の秋天も走っていた御年14歳のミスタートウジンなど、今考えると錚々たる顔ぶれが多数集結していたこのレース。メイセイオペラはあっさり好位置をキープすると、直線入り口で先頭に並びかけ、抜け出すと後は横綱相撲。2馬身差をつけ貫禄の完勝を見せた。
公営競馬所属馬が中央GIに勝ったのはこれが史上初めてだった。佐々木調教師は興奮のあまり丸めた新聞で前の人をぶっ叩き、馬主は夫の遺影を掲げ「あなたの馬が先頭を走ってるわよ!」と叫んだ。岩手から大挙してやってきたファンたちは快挙に熱狂。メイセイオペラと菅原勲騎手に「イサオ」コールを浴びせた。
果断なる者
勝算と自信をわらう声に
いまはまだ
甘んじるとしよう。けれどこれだけは確かだ。
きっと君たちも
認めざるを得なくなる。
アブクマポーロとの再対決、ドバイへの遠征も楽しみになったこの勝利だったが、アブクマポーロはこの後、故障のため引退。結局再戦は果たされなかった。
名実共にダート最強馬となったメイセイオペラであったのだが、彼自身も帝王賞を含め3連勝した後に故障。東京大賞典は11着、連覇を狙ったフェブラリーステークスも僅差4着に敗れ、帝王賞14着の後にみちのく大賞典を勝ったがここで屈腱炎を発症。引退となってしまった。通算35戦23勝。ダート馬は年を経てから強くなることも多いので、順調であったならもう一伸びあったかもしれない。惜しまれる引退であった。
フェブラリーステークスは2番人気での勝利だったが、「岩手の怪物?どうせ売れ残りでしょ?」てな扱いをする向きもあった。しかし彼はここを勝ち、公営所属馬の名誉を守った。決して地方の1強ではないメイセイオペラが中央GIに勝ったことで「地方にはもしかしてまだまだ怪物が隠れているのかも」と中央のファンたちはドキドキしたものである。
メイセイオペラの後、南関東を中心に交流GI(JpnI)でも互角に中央勢と渡り合う地方馬が少なからず登場したが、中央GIに勝つ公営所属馬は未だ出ていない。地方競馬場が次々潰れているこの御時世では、中央への挑戦よりも日々の生活なのも仕方が無いのかもしれないが、交流を荒らしまわるような強い馬が出れば注目も集まって、お客さんも競馬場にやってくるのだから頑張って欲しいものである。たまに話題になればハルウララではいかんのではないかと思う。
メイセイオペラは引退後、種牡馬としてレックススタッドでしばらく繋養されたのち、2006年に請われて韓国へ渡り、当地でクラシックホースを輩出するなど活躍。2016年7月、心不全により世を去った。以前から体調が悪化しており、関係者が帰国の準備を進めていた矢先の悲報だった。22歳になったこの年も何頭か種付けをしていたそうで、そのうち、韓国から彼の血を引く馬が来襲してファンをまたびっくりさせる日が来るかもしれない。
血統表
*グランドオペラ Grand Opera 1984 鹿毛 |
Nijinsky II 1967 鹿毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Flaming Page | Bull Page | ||
Flaring Top | |||
Glorious Song 1976 鹿毛 |
Halo | Hail to Reason | |
Cosmah | |||
Ballade | Herbager | ||
Miss Swapsco | |||
テラミス 1988 栗毛 FNo.6-a |
*タクラマカン Ishikari 1978 栗毛 |
Damascus | Sword Dancer |
Kerala | |||
Virginia Green | Nashua | ||
Virginia Water | |||
ヤヘイボン 1983 青鹿毛 |
*オフィスダンサー Office Dancer |
Northern Dancer | |
Office Queen | |||
シナノイブキ | *シーフュリュー Si Furieux |
||
Treat | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Northern Dancer 3×4(18.75%)、Almahmoud 5×5(6.25%)
- 父*グランドオペラはラーイやシングスピールといった活躍馬・活躍種牡馬の半兄。その他の近親にはハルーワスウィート、ダノンシャンティなどがいる。
- 母父*タクラマカンはミルリーフの従弟という良血の外国産馬で、3歳冬には後の二冠馬カツトップエースを破ったこともあったが、当時の外国産馬の宿命で走るレースが限定されていたこともあり、重賞では宝塚記念3着が最高であった。
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関連項目
外部リンク
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