「吉弘統幸」(よしひろ・むねゆき 1564 ~ 1600)とは、豊後の戦国大名・大友家に仕えて主家の滅亡に殉じた義理固い武将。
同じ大友家にはチート級の義理固さを誇る高橋紹運がいる為か目立たないが、吉弘統幸もまた義理固い大友家臣の一人である。
※名前の構成がなんとかなく似ているが「吉野弘幸(脚本家)」とは関係は無い。
概要
大友家臣・吉弘鎮信の子に生まれ、父が島津家との耳川の戦いで戦死した後に家督を継いだ。
大友宗麟の後を継いだ大友義統によく仕えて、島津家との決戦に敗れて衰退する主家を支え続けたものの、文禄の役の際に、小西行長救出の命をうけながら、小西行長が戦死したという偽情報を信じて大友義統が撤退した事が豊臣秀吉の勘気に触れて大友家が改易となってしまう。
大友家を離れた吉弘統幸は、豊前の大名となった黒田孝高に招かれて仕官したものの、その後は従兄弟の立花宗茂の家臣となった。
関ヶ原の戦いが起こると、立花宗茂に暇乞いして筋を通した後に大友義統に合流して主家再興の為に東軍につく事を進言するも、大友義統の再度の判断ミスにより旧・大友軍は西軍に加担する事になってしまう。
豊後奪還の為に黒田孝高と合流前の黒田軍と石垣原で戦い、序盤は吉弘統幸の奮戦により優勢に進めるも、黒田孝高の到着が読めない事から全体の士気が不安定となり、大友軍の敗戦が決した頃、大友義統に別れを告げた後、手勢を率いて黒田孝高軍に突入し、いついかなる時も大友義統や世話になった者達への義理を通した男は戦場の露と消えた。
明日は誰が 草むす屍 照らすらん 石垣原の 今日の月影
※その他「吉弘統幸」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
関連動画
▼アイドル情報の事情通に定評のある「春香さんが大名になったようです」
※一条兼定から家督を譲り受けた天海春香が初めて登用に挑戦した時の相手でもある。
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | 66 | 戦闘 | 69 | 智謀 | 45 | 政治 | 44 | 野望 | 54 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 150(A) | 智才 | 122(B) | 政才 | 88(C) | 魅力 | 66 | 野望 | 54 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 69 | 智謀 | 67 | 政治 | 46 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 63 | 戦闘 | 56 | 智謀 | 61 | 政治 | 42 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 57 | 智謀 | 49 | 政治 | 34 | 野望 | 50 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 55 | 知略 | 49 | 政治 | 36 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 55 | 知略 | 47 | 政治 | 34 | 教養 | 46 | ||||||||
革新 | 統率 | 62 | 武勇 | 70 | 知略 | 53 | 政治 | 38 | ||||||||
天道 | 統率 | 62 | 武勇 | 70 | 知略 | 53 | 政治 | 38 | ||||||||
創造 | 統率 | 59 | 武勇 | 66 | 知略 | 55 | 政治 | 43 | ||||||||
大志 | 統率 | 57 | 武勇 | 65 | 知略 | 56 | 内政 | 43 | 外政 | 47 |
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関連項目
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