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G.G.佐藤(本名:佐藤隆彦、1978年8月9日-)とは、千葉県出身の元プロ野球選手(外野手)である。キモティー!
概要
OB | |
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G.G.佐藤 (佐藤隆彦) |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 千葉県市川市 |
生年月日 | 1978年8月9日 |
身長 体重 |
184cm 94kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 2003年ドラフト7巡目 |
引退 | 2022年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
桐蔭学園高等学区を卒業した後は法政大学に進学。後藤武敏とはチームメイトで、後藤が一塁手に回った際に三塁手として出場。この時は外野手ではなかった。
大学卒業後はフィラデルフィア・フィリーズの傘下球団に入団し、内野手から捕手にコンバートした。
2003年ドラフト7巡目で西武ライオンズに入団した。背番号は46。登録名は「G.G.佐藤」。理由は、中学校時代のあだ名「じじぃ」から。
西武時代
2004年は45試合の出場で打率.298、3本塁打、8打点を記録。捕手登録でありながら、捕手での出場は一度もなかった。本人曰く、松坂大輔のスライダーが取れなかったから捕手をあきらめたという。
2005年に捕手から一塁コンバート。37試合の出場で打率.214、2本塁打、3打点と結果を残せなかった。
2006年からは外野手にコンバートされる。 西武ライオンズでは右翼手。
2007年は自身を「愛の波動砲」と称して打撃が開花。136試合の出場で、打率.280、25本塁打、69打点とブレイクした。守備においては無失策、補殺数で外野手リーグ4位を記録するなど、守備の安定性と肩の強さを見せた。
2008年は2006年オフに知り合っていた一般女性と結婚。打撃好調を維持し、5月の月間MVPを初めて受賞。オールスターゲームにも選出された。
北京五輪
野球日本代表として追加招集され、代表メンバーに選ばれた。しかし打撃、守備共に活躍することはなかった。特に守備においてはライトではなく慣れていないレフトでの起用ということもあり、準決勝の韓国戦ではレフトへのゴロを後逸、フェンス際のフライを落球するなど2失策を犯し、3位決定戦のアメリカ戦でも平凡なレフトフライを落球するなど精彩を欠いた。この3失策はネット上に多くの反響を呼び、「E.E.佐藤」などと揶揄されたり、ニコニコ動画でもG.G.佐藤のMADが数多く作られるなど「北京五輪戦犯」の印象が付いてしまった。失策の後、妻に「死にたい」というメールを送っていたことは2012年7月19日に放送された「女の波乱万丈人生SP プロ野球選手の妻たち」で明かされた。
しかし、一発勝負の場で慣れないポジションを守らせたり、不可思議なコーチ・選手の選出をしたり、不調の選手をいつまでも見切らずにスタメンで起用し続けた星野仙一代表監督の存在も当然忘れてはならない。
日本代表選手壮行会で「体は北京へ行きますが、魂は西武ドームに置いていきます」と発言。しかしこれが前述の北京五輪でのエラー及び不調の原因じゃないかと噂されている。元々気が弱く、傷つきやすい選手で(リトルリーグで教えていたサッチー談)、移動中は自分の声を録音したものを聞いて自分を奮い立たせているほど。
日本帰国後
北京五輪での失策による精神的なショックから球団はG.G.佐藤を休ませようとしていたが、渡辺久信監督の意向により休養とはならなかった。日本に帰国した後も試合出場を重ねていたが、疲労骨折していたことが明らかになり、この年にチームは優勝したが、クライマックスシリーズと日本シリーズの出場はなかった。
2009年以降
2009年に第一子(長女)が誕生。この年の9月に打率.400、9本塁打と活躍し、月間MVPを獲得。
2010年からは膝の悪さを理由に、ライトからレフトへコンバート。開幕直後は4試合連続ホームランを打つなどの活躍もあったが、調子は上がらず4月に二軍落ち。復帰後も復調気配はなく7月に再度二軍落ちし、そのままシーズンを終えた。また9月には両肱と左肩のクリーニング手術を行った。53試合の出場で打率.204、6本塁打、19打点に留まった。
2011年は一軍での出場が1試合もないまま、戦力外通告を受けた。トライアウトを受けたが獲得に動く球団はなかった。
2012年、イタリアンベースボールリーグのフォルティチュード・ボローニャ1953に入団した。主力として活躍したものの、イタリア・カップへの参加を拒否したことで8月に突然解雇された。その後、9月に社会人クラブチームのロキテクノベースボールクラブへ入団した。
ロッテ時代
2012年オフに千葉ロッテマリーンズの入団テストを受け、合格。2年ぶりのNPB復帰となった。背番号48。
2014年10月5日、千葉ロッテマリーンズから戦力外通告を受け退団、同年10月10日自身のブログで引退を告げた。
ロッテ退団後
ロッテ退団後はサラリーマンとして実父が社長を務める一般企業へと就職。その縁か2015年以降はQVCマリンフィールドにて彼が務める会社のCMが流れるようになった(G.G.佐藤本人も出演している)。
2015年11月2日放送のしくじり先生にて「日本代表なのに簡単なフライ落としちゃった先生」として講師役として出演。五輪での逸話や現役時代のエピソードを語った。
現役引退
2014年にロッテを退団していたが、実際は現役引退ではなかった。3月30日に出演したトラバースTVで現役引退を発表し、4月25日にトラバースの縁もあり、ベースボール・チャレンジ・リーグの埼玉武蔵ヒートベアーズに入団。4月29日の神奈川フューチャードリームス戦が引退試合となり、4打席3安打1打点で現役生活を終えた。応援歌はロッテ応援団から許可された上でロッテ時代の応援歌が起用された。引退のための所属だったため、この日で武蔵を退団した。
契約問題
かつて契約で揉めた事が多く、2008年以降2年連続で年俸調停をしており(これはマイナーリーグ経験によって金銭感覚がシビアなことによるもの)、自費参加したキャンプもあった。そのため、「自費自費佐藤」や「ゴネゴネ佐藤」などと揶揄されている。2010年は一発更改した。
プレースタイル・人物
- ジム(横浜など)へ通い、体を鍛える事がある趣味の一つであり、その日本人離れした体格・パワーが彼の持ち味である。
- 元々捕手と言う事もあり守備範囲は狭い(フライ勘がイマイチ)が、捕球自体はそれなりに上手く、レギュラーシーズンで外野出場した4年間は271試合で失策数は2。
- 『G.G.佐藤』と書いて「ジージーサトウ」と読むのだが、『QRライオンズナイター』のジングルにおいて自ら「ジードットジードットサトウ」と.部分をドットとして自己紹介。そのため彼を『ジードット』と呼ぶファンもいる。
- 2008年の北京五輪のエラーから凋落したというイメージで語られることが多いが、2009年も活躍しており、成績が悪化したのは膝の悪化した2010年以降である。
- あまり知られていないが、ゆで卵好きである。
- 埼玉西武ライオンズ時代の同僚であった梅田尚通、前川恭兵、林崎遼が戦力外通告を受けた際、自身が務める会社「株式会社トラバース」に誘い、三人は入社した。プロ野球だけでなく会社でもこの三人とは同僚となった。
応援歌
球団 | レス | No | プレイヤー |
---|---|---|---|
西武 | 応援歌のピコカキコ一覧#138 | 8731 | |
ロッテ | 応援歌のピコカキコ一覧#291 | 9169 |
成績
通算打撃成績
通算:8年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 587 | 2023 | 1835 | 245 | 507 | 115 | 4 | 88 | 270 | 12 | 1 | 10 | 136 | 41 | 429 | 53 | .276 | .338 |
通算守備成績
機構 | 守備位置 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 |
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NPB | 一塁手 | 38 | 114 | 3 | 3 | 11 | .975 |
外野手 | 436 | 752 | 24 | 6 | 7 | .992 |
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
- プロ野球選手一覧
- 埼玉西武ライオンズ / 千葉ロッテマリーンズ
- 埼玉武蔵ヒートベアーズ
- どうしてこうなった(野球選手) / もう許してやれよ
- 北京オリンピック / 星野仙一
- 法政大学
- ゆで卵 / 坂東英二
- マッチョ
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