戦国DQN四天王 単語

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戦国DQN四天王とは、聖人が少ない戦国の世において抜きん出た所謂『DQNさ』を持つ人々をす、ある種の称号と言えるものである。

概要

KING OF DQN』とも言える4人が議論を経て、各掲示板で統一見解として決まっていた。

それをご紹介させて頂くのがこのタグ的である。

戦国DQN四天王~エピソードも添えて~

伊達政宗(奥州の荒れ馬)

何をしでかすか判らない『荒れ』の如き人物である。

臣一同もそれにされてしまったのか、なかなかのDQNエピソードがあったりするのである。

自称将軍家康死後も如何く発揮され、『政宗なら許される』という空気を作りあげてしまった胆は凄まじい物がある。

下の副将軍は『ダテ』ではない...。

森長可(血に飢えた信長の狂犬)

血なまぐさい所に『長可あり』。まさに生ける人間兵器ともえる人物である。

彼を管理すべき織田信長も、彼を寵愛していた為に違反や罰則も不問に次ぐ不問。

この人の場合は信長セットで考えても良いのではないかと思うほどである...。

しかし惜しむべきは27歳というい死であり、このまま生きていたら『DQNさ』では断トツトップであったのではないかと思われる。

武蔵』は伝説となった訳である。(良い話)

細川忠興(丹後生まれの狂乱の貴公子)

一言で表すなら『ヤンデレ』である。

妻の事となると殊の外暴走気味となり、妻の玉子キリスト教宗した際には女(身の回りのお世話をする女性)のを削いでキリスト宗を辞めろと言い、玉子に見惚れた植木職人を切り払い、遠征中には『秀吉が誘っても行くなよ!絶対に絶対だ!』と何通も送ったほど。

妻の玉子(ガラシャ)が西軍の攻めにあって自害してしまった際には、長男の忠に全責任を押し付けて怒りのままに嫡(つまり勘当状態)にしてしまう程の妻へのであったが、実際にはそれ以前に夫婦関係は破綻していたようである。

ヤンデレはほどほどに。

島津忠恒(戦国時代の司馬炎)

お父さんの意思を全く受け継がなかった、絶倫&冷酷さを両立した人物であった。

のちに『久』を名乗る事になるが、これは徳川家康から諱の『』の字を賜ったためである。

一緒に戦ってきた島津家老伊集院忠棟を暗殺し、その子忠が反乱を起こした後和した後に狩りに一緒に出掛けて射殺し、跡相続で揉めた時にも家老平田増宗を暗殺している『家老キラー』持ちである。

妻の寿(伯父島津義久)とは折り合いも悪く、義久死後は寿に押し込めた。

また継妻である島津忠清(島津氏庶)の母親戚も、忠清死去後に『隠れキリシタン』であったとして種子島流しを行っている。

将軍にお伺いを立ててから、側室8人との間に33人の子供を作り、その子供たちを理やり結婚or理やり領内各地に配置して盤石な体制を作り上げた。

絶倫と冷酷非とはまさに正義である。(※忠恒に限る)

ちなみに二代薩摩となる次男の久もかなりの絶倫で、10人の側室に人数不明の愛人を囲って38人の子供がいたという...。

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最終更新:2024/05/04(土) 16:00

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