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クラレンス・ジョーンズ(Clarence Woodrow Jones)とは、元プロ野球選手である。
概要
OB | |
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クラレンス・ジョーンズ Clarence Jones |
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基本情報 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | オハイオ州 |
生年月日 | 1941年11月7日 |
身長 体重 |
188cm 93kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 一塁手、外野手 |
プロ入り | 1959年 |
引退 | 1977年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
高校卒業後、1959年にフィラデルフィア・フィリーズと契約。長らくマイナー暮らしが続いたが、シカゴ・カブス傘下のマイナーチームへ移籍後、1967年に初めてメジャー昇格。同年は53試合に出場し打率.252、2本塁打、16打点を記録。翌1968年は5試合の出場で無安打に終わり、1970年はメジャー昇格無しに終わるなど、メジャーリーグに定着することは出来なかった。
1970年、南海ホークスに入団。前年最下位に沈んだチームの長打力不足解消を期待された。
初年度の1970年、開幕2試合(ダブルヘッダー)で4本塁打を放つなど鮮烈なデビューを果たすと、その後も野村克也の後を打つ5番打者として起用され、打率.244、33本塁打、88打点をマーク。優勝したロッテオリオンズから離されはしたものの前年最下位のチームを2位へと躍進させる立役者となった。
1971年は打率.231、73打点と打率・打点の2部門で前年度を下回る成績に終わったが、35本塁打と本塁打は前年より上回る成績を残した。
1972年、キャリアハイの打率.292をマークし、32本塁打を放った。夏場にはオールスターゲームにも出場した。
1973年、打率.244、32本塁打、70打点をマークしチームのパ・リーグ制覇に貢献した他、守備面での貢献も評価されダイヤモンドグラブ賞に選出された。
これまで南海の中軸打者として活躍を続けたが、ジョーンズの確実性を疑問視した球団から自由契約を言い渡され、翌1974年は近鉄バファローズでプレーすることになった。
1974年、38本塁打を放ち、2リーグ分立後初の外国人選手による本塁打王となった。一方で打率は.226と規定打席到達者の中では最下位であった。
1975年はチームの4番打者としてチームの前期優勝に貢献。打率.228、29本塁打、73打点をマーク。
1976年、36本塁打を放ち、2度目の本塁打王のタイトルを獲得。
1977年、スランプに陥り打率.177、11本塁打と低迷。オフに自由契約となってしまう。
近鉄退団後、1978年にメキシカンリーグのアグアスカリエンテス・レイルロードメンで1年間プレーした後、現役を引退。
引退・帰国後はアトランタ・ブレーブスやクリーブランド・インディアンズで打撃コーチを務め、チッパー・ジョーンズらを育てた。
人物・エピソード
持ち前のパワーを生かしたパワフルな打撃で本塁打を量産したスラッガー。豪快なフルスイングで活躍した一方で空振りが多く、NPB在籍8年間で5度の最多三振を記録し、『扇風機』と揶揄されることもあった。また、当たればホームランという打撃は相手投手からも恐れられ、最多四球を3度記録している。
NPBで放った246本塁打は、1986年にレオン・リーが更新するまで外国人最多本塁打記録であった。
息子のリチャードは南海時代に生まれ、現在はアメリカで俳優として活躍している。
通算成績
打撃成績
通算:10年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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MLB:2年 | 58 | 159 | 137 | 13 | 34 | 2 | 16 | 0 | 2 | 4 | 16 | 0 | 34 | 2 | .248 | .318 |
NPB:8年 | 961 | 3810 | 3182 | 475 | 762 | 246 | 562 | 26 | 0 | 32 | 565 | 31 | 719 | 61 | .239 | .356 |
獲得タイトル・表彰
関連項目
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