ジギスモント・タールベルク、またはジギスムント・タールベルク(1812~1871)とは、前期ロマン派の作曲者・ピアニストである。
概要
フランスでサロン文化が栄えた19世紀前半に活躍したヴィルトゥオーソ演奏家の一人で、リストのライバルとしておなじみの存在である。
1812年スイスのジュネーブに生まれる(名前の表記がややこしいのはそれが理由)。幼いころからモシェレス、フンメル、カルクブレンナー、チェルニーなどにピアノを教わった。特筆すべきはフンメルで、フェルディナント・ヒラーやアドルフ・フォン・ヘンゼルトら兄弟弟子と同様、モーツァルトの孫弟子にあたり、のちにドイツのピアニストがベートーベン→チェルニー→リストの流派に席巻される以前の貴重な他流派の一つとなっている(まー上にも書いてある通りチェルニーの弟子でもあるんだけど)。
1835年、ついにパリでデビュー、そして大成功を収める。しかし同時期にフランツ・リストも活躍しており、瞬く間に二人はライバルであるという構図がマスメディアなどを通して自他ともに認識されていった。上にも書いたがリストはチェルニーの弟子にあたり、この対決はいわばベートーベン対モーツァルトの流派対決の趣もあったかもしれない。そこで二人はクリスティナ・ベルジョイオーゾ侯爵夫人がセッティングしたピアノ決闘をついに1837年に行うことになったのである……が結局決着はつかなかった(タールベルクは世界一のピアニスト、リストは世界で唯一のピアニストだってさ)。その後もヨーロッパ横断ツアーや渡米ツアーなどを開き精力的にピアニストとして活躍した。
しかしそんな晴れやかな時代はやがて過ぎ、晩年はイタリアのナポリ音楽院の教授として静かに暮らし、そのまま亡くなった。
彼のピアノ曲はほとんどヴィルトゥオーソが多く演奏していた編曲ものであり、とりわけ3本の腕という必殺技みたいな演奏法で有名である。これは左右の手がそれぞれアルペジオを演奏しながら両手の親指だけでメロディーラインを担当するというものである。その後一つのピアノ奏法として確立され、プリューダンなどに継承されていった。
リストのライバル…という割にはリストに比べて忘れられた感はあるが、ヴィルトゥオーソや超絶技巧ピアノ曲について言及される際には最初の5人くらいで出てくるレベルには名前が知られている。またアルカンにおけるアムランよろしく、フランチェスコ・ニコロージが積極的に取り上げたり、日本では高須博が彼のオペラ曲のトランスクリプション物を録音している。オリジナル曲がほとんどないため低く見られてきたこれまでに対し、再評価の真っただ中にある作曲家の一人、それがタールベルクなのである。
関連動画
関連商品
関連項目
- 1
- 0pt