ニコライ・ミャスコフスキー(1881~1950)とは、20世紀ロシアの作曲家でこの時代に交響曲を27曲も作った人物である。
概要
プロコフィエフの一回り上の親友で、プロコフィエフ、ストラヴィンスキーと並ぶ、いわばペテルブルク三羽烏の一人ともいうべき存在。なお、メトネルとはほぼ生没年が変わらない同時代人。
1881年にワルシャワの近くであるノルヴォゲオルギイェフスク(現:ポーランド)に生まれる。軍人だった父親が転属が多かったがために、ロシア人であるにもかかわらず国境の方で生まれたことになる。ただし、兄弟の2番目だったニコライ・ミャスコフスキーは音楽への関心を見せ、母の死後一家の子供たちを育て上げたおばがこれを助長させたようだ。
ミャスコフスキーはそのまま父の後を継ぎ、ニジニ・ノヴゴロドで士官学校にはいる。ただし、この頃には父親が将官待遇になっていたため余裕ができ、音楽にのめり込んでいった。この時、当初はピアノに打ち込んだが学校で怒られて禁止されてしまい、ヴァイオリンへと移っていった。
かくして、軍人との二足のわらじで作曲を志し、リムスキー=コルサコフに手紙を送り、タネーエフからグリエールを紹介される。ただし、モスクワにいたはずなのにすぐにペテルブルクに戻ってしまい、ペテルブルク音楽院の生徒となったのであった。
なお、プロコフィエフとは大体モスクワ→ペテルブルクの流れは同じであり、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のリハーサル時にタネーエフのそばにいたプロコフィエフを見た証言を後にしている。
ちなみに、カトゥアールに師事したとよく見かけるが、カトゥアールはこのころまだ教師ですらなく、伝言ゲームの結果フェイクとして広まったものである。
まあ、そんなこんなでリャードフのクラスで二足のわらじを続けていたが、1907年に音楽一本に絞る。ただし、リャードフとはウマが合わなかったようで、ミャスコフスキーは交響曲第1番を1908年にグラズノフに持ち込み、正式に音楽院に入った。そして弦楽四重奏曲で1911年に卒業を認められた。このころまでに作ったのが、名作と名高いピアノソナタの4番までだったりする。
以後、和声の教師の傍ら作曲を続けていたが、1914年に第一次世界大戦で徴兵される。多くの作曲家が免れている中、数少ない前線で塹壕生活を送った人物となり、プロコフィエフはミャスコフスキーの苦痛に共感し葛藤したとか。
しかし、1917年、タリンで負傷。モスクワに移され、海軍省で後方勤務となった。この1921年の除隊までに作った交響曲第6番までが、ミャスコフスキーの中でロマン主義的傾向が強いものである。
1921年は、脱ロマン主義的な交響曲第6番の発表と、除隊に伴うモスクワ音楽院教授への就職、という2つの転機となる。ステンカ・ラージンを謡った交響曲第8番などがこの第2期ともいうべき時代の象徴であり、ほんとうに黙々と交響曲を作り続けていく。
しかし、時代はロシア革命も過ぎ、スターリン時代に移る。1936年の空軍にささげた交響曲第16番など、ソヴィエト連邦を代表する人気作曲家だったミャスコフスキーであったが、プロコフィエフやショスタコーヴィチ同様、保守的な作品を試していくようになり、プラウダ批判、ジダーノフ批判などが起きたソヴィエト連邦内で、試行錯誤していったようだ。
ただし、プロコフィエフと違って西側にほとんど回路を持たなかったミャスコフスキーだが、交響曲第21番はシカゴ交響楽団50周年のために作っている。とはいえ、この曲は国内では赤軍記念日のために演奏され、二重の意味を生じさせた。
独ソ戦の間、コーカサスに疎開され、交響曲第22番、23番は民謡から着想を受けた。ジダーノフ批判が起きた1948年には既に交響曲26番もできており、1950年に交響曲第27番の初演を目前にして、亡くなった。
スターリン賞を多く手に入れながらも、批判の矛先をかわし続けていったミャスコフスキー。しかし、ぶっちゃけ、内省的な着想を交響曲でひたすら試していった存在であり、劇場音楽などは作っていない。なお、交響曲の奇数を自分のために、偶数を大衆のために作ったとか。
弟子にハチャトゥリアンやカバレフスキーがいるなど、そこそこマイナーながらもソ連音楽界への影響はなかなか強かったりする。また、ソヴィエト作曲家連盟の発案者でもある。
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