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- 旧ソビエト連邦の指導者の子供好きのおじさん。ヨシフ・スターリン。
- 1980年代に結成されたパンク・ロックバンドの名前。
- メタルサーガ 鋼の季節に登場する戦車及び賞金首(賞金首の時の名はグラマースターリン)
- シスタープリンセスの略称。
- 旧ソビエト連邦の重戦車IS-1、IS-2、IS-3のこと。名前の由来は1のヨシフ・スターリン。
本稿では主に1について記述する。
概要
人物 | |
ヨーシフ・ヴィッサリオーノヴィチ・スターリン Иосиф Виссарионович Сталин Iósif Vissariónovich Stálin |
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基本情報 | |
生年月日 | 公式:1879年12月21日 (実際には1878年12月6日が濃厚) |
生誕地 | ロシア帝国・カフカス地方・チフリス県・ゴリ市 |
没年月日 | 1953年3月5日(73歳、もしくは74歳没) |
死没地 | ソビエト連邦・モスクワ州・クンツェフスキー地区ヴォリンスコイェ |
国籍 | ジョージア系ロシア人 |
本名 | イオセブ・ベサリオニス・ヅェ・ヂュガシヴィリ იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი Ioseb Besarionis Dze Jughashvili |
別名 | 鋼鉄の人、コバ(ジョージア風の愛称)など多数 |
職業・肩書 | 政治家、軍人 |
備考・その他 | |
人物テンプレートボックス |
ロシア帝国領カフカス地方チフリス県ゴリ市(現在のジョージアの首都トビリシの76km西にある古都)出身。1922年から1953年に死去するまで、ソビエト社会主義共和国連邦の第2代最高指導者(第2代人民委員会議議長、初代ソビエト連邦共産党中央委員会書記長)として、実質的なソ連の権力トップの地位にあった。
本名はジョージア語でイオセブ・ベサリオニス・ヅェ・ヂュガシヴィリ。
一般によく知られる「スターリン」という姓は『鋼鉄(сталь)の男子(-ин)』を意味し(ちなみにスターリの語源はドイツ語のシュタール(Stahl, 英語の steel と同根))、元々は古ジョージア語で同じ意味を持つ本名の姓ヂュガシヴィリ(元々のニュアンスとしては『製鉄に携わる者』という職業姓になるが、他にもオセチア語由来で「(家畜の)群れの子>畜産に携わる者」を意味する、など諸説ある)をロシア語訳した名義(ノン・ド・ゲール)で、彼は他にもコバ(Коба, Koba)、イヴァーノフ(Иванов, Ivánov)など多数の別名を名乗っている。
ミドルネームのベサリオニス・ヅェは『ベサリオンの息子』を意味する父称で、ロシア語ではヴィッサリオーノヴィチとなる。個人名の「イオセブ」はロシア語ではヨーシフ(Iossif)、英語ではジョーゼフ(Joseph)に相当し、聖書由来である。これが、スターリン戦車のアルファベット表記が"IS"と"JS"で揺れている理由でもある
『至高の中二病』として名高く、国家権力を振るって数々の伝説を残した20世紀を代表する独裁者の一人である。
伝説
- 自身の思想と相容れない政治家と関係者、一般党員、民衆、軍人に至るまでを粛清、100万人以上を有罪、半数を銃殺、地区委員会や共和国委員会が丸ごと消滅(大粛清)。
- 特定の民族や、政治思想で対立した者、抵抗する農民などに「極北の土地をくれてやった」(シベリア送り)。
- 第一次五ヵ年計画で集団農場(コルホーズ)を作り、反発した農民を処刑。生産力の高い有能な農場主を「富農」として土地を取り上げ、農民の労働意欲の低下により大飢饉が発生
- そこに追い討ちを掛けるように。ウクライナ人から小麦を全て取り上げる意図的な徴発によって、少なくとも250万人(説によっては1500万人近く)のウクライナ人が餓死した(ホロドモール)。これにはユダヤ人絶滅計画のヒトラーもびっくり。
- ポーランド・ソビエト戦争で自分の面子を潰されたことに対する雪辱として、2万人以上のポーランド人捕虜を銃殺し(カティンの森事件)、その責をドイツになすり付けようとする。
- エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国にソ連軍進駐を実施、首脳を脅して併合、反発する住民を粛清(バルト諸国占領)。
- 退却禁止命令を発動して味方の背後に機関銃を設置、勝手に動いた者や敵前逃亡する者を銃殺する命令を出す。
- 長男が独ソ戦で捕虜になった時、ドイツの捕虜交換申し出を「大尉と元帥を交換するバカがどこにいる」と拒否。
- 長女の一人目の交際相手をイギリスのスパイと考えてシベリア送り。
- スターリンの質問に「Noの返事をすれば粛清、曖昧な返事でも粛清、即答できなければ粛清、目を逸らしたら粛清」
- 「おや、誰か来たようだ」は、おそらく大粛清時代の秘密警察が元ネタ(深夜のスターリンノック)
- 第二次世界大戦中のテヘラン会談にて、「まず5万はドイツ軍人を銃殺すべき!」と宣言、チャーチルを激怒させる(ちなみにこの時ルーズヴェルトが取り持つように「では4万9千人銃殺にしましょう!」と言っている)。
- 西側諸国が朝鮮半島に大韓民国を作ったことに対抗して、金日成を指導者とした朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を樹立、対立させる(の割には「私は助けないから毛沢東に助けてもらえ」と無責任に投げる)。
- スターリン危篤のニュースで日経平均株価が大暴落(スターリンショック)
- さあ、これが君のシベリア転属許可証だ。木の本数を数えてきてくれたまえ。
その他多数
人物像
無慈悲で、冷酷で、誰ふり構わず粛清しているイメージの付きまとう人物だが、その人物像は単純な独裁者と言って終わらせることのできない複雑怪奇に過ぎる。
彼は穏やかな性格で、多弁で社交的、歌が上手かった。本を大量に読み、文学に理解を示し、歴史や神話に豊富な知識を持っていたといわれている。特に歌は、「彼は歌手としてもやっていけただろう」と言われるほどであったという。彼が歌手になっていたら第二次世界大戦はどうなっていたのやらである。グルジア訛りの発音で、演説なども淡々と物静かだった(だがこれは身内には親しみを与え、よい印象を与えていたようだ)。
しかし彼は元来、少数民族としての劣等感を持ち、父親からの虐待、母親からの厳しい教育、愛した妻の死などで、次第に性格は複雑になり、表面上の穏やかさとは真逆の残虐性や冷徹さを兼ね備えた人物になっていく。
革命家仲間たちや、その子供たちと別荘で遊んでいる際、ウクライナでは大飢饉で何百万もの人々が餓死していたり、愛する妻へのラブラブな手紙を書いた直後に、各地での粛清ノルマを決めた指令書を書いていたりするのは、まさにスターリンを象徴する事由と言えよう。
スターリンは非人間的な一面を持ちながらも人間らしい一面も多く持ち、二人目の妻ナジェージダが死亡したとき(自殺と言われている)も、「私はもう終わりだ!」と泣き崩れ、ナジェージダとの間に設けた息子のワーシリーに「パパ泣かないで」とか励まされている。ナジェージダには頭が上がらず、彼女に怒鳴られて浴室に閉じこもり、頭を抱えていたという逸話まで残っている。また、成長したワーシリーがスターリンの名で権力を濫用した時は後述する語録にある言葉で激しく叱責しており、一族絡みで公私混同を行わなかったとも言われる。実際、長男がドイツの捕虜になった時は表向きは上記の言葉で拒否しているが、内心は彼が捕虜になった事に苦悩しており、長男が収容所で死亡した事を聞いた時は1人涙を流した。
晩年、元々猜疑心の強かったスターリンはその性格を更に強め、あらゆる場所に敵の姿を見て、スパイを疑い、部下の部屋を盗聴させ、疑った人間はすぐさま粛清したという。自分の周りの誰もが敵で、自分の命を狙っているのだ、という典型的な「偏執病(パラノイア)」を発症している。挙句の果てには「誰も信用できない、自分でさえも」と部下に言ったほど。
彼は理想として常に革命的政治を優先し、歴史と変革の先導者「スターリン」であり続けようとした。しかし、元来の複雑な出自や性格の板挟みにあい、非常に難解な精神理論に基づいて行動していたため、妻や娘を愛するスターリンもいれば、人民の命を全く顧みないスターリンがおり、革命家仲間を愛するスターリンもいれば、裏切り者を容赦なく粛清したスターリンがいたのである。
脳卒中で倒れた時、スターリンの眠りを妨げて怒りを買うことを恐れていたために発見が遅れて手遅れになったとも、周りの誰もが倒れたスターリンに適切な処置を施そうとせず見殺しにした(娘のスヴェトラーナの主張)とも、はたまた脳卒中の治療にも使われる殺鼠剤ワルファリンによる治療中の偶発的な事故あるいは意図的な暗殺とも言われ、その死の逸話からも独裁者スターリンの孤独が見て取れる。
評価
彼の統治時代は30年に及び、ソビエト社会主義共和国連邦の7人の歴代最高指導者でも最長を誇る。
第一次五ヵ年計画による農業・工業革命を打ち立て、これを(無数の餓死者が出たぐらい無理矢理)推進し、第二次世界大戦という史上最大の世界規模の大戦を(世界最多の2000万人以上の戦死者を出したものの)勝利に導いた。
だが、スターリンの無茶ぶりで犠牲になった人間は、国内外あわせて凄い数になる。
死後たくさんの恨みを買っていたためか、国歌(祖国は我らのために)からスターリンを指す歌詞が消えたり、スターリンの銅像が人民によって川に投げ捨てられたり、スターリンの名が付いた第二次世界大戦の激戦都市(スターリングラード)が改名されたりと、すさまじいアンチスターリンの流れが起きた。
とはいえ、「アメリカなんぞに負けてたまるものか!」というスターリンの底知れぬ野望は、社会的な事業においては大きく成果を上げることになる。(特に女性への)平等な教育、生活水準の向上、識字能力の大幅な向上など、教育事業がスターリンの時代に大きく成長したのは間違いない。しかし、これらが主に女性に対して行われた理由が、「当時のソヴィエト連邦の20代男性の95%近くが大戦を経て戦死してしまったから」だというあたりが、ますます彼の評価を難しくする。
同時に、鉄道や道路の建設、軍事力も大幅に向上などなど、ソヴィエト連邦は彼の時代に強大な国家となったが、これらの背景には粛清の名のもとにシベリアや強制収容所に送られた労働者たちによる強制労働などがあり、多くの労働者が過酷な環境と労働で死亡したため、これも単純に評価を下すのは難しい。
しかし、スターリンが作った監視社会、東西冷戦構造、重工業重視の計画経済は脈々と引き継がれていった。
そういった意味では、ソヴィエト連邦という国家の方向性を明確に基礎付けた人である。
ソヴィエト大衆の中には、一部にスターリン体制を熱狂的に支持する人々もいた。
ソヴィエト崩壊によって、ソヴィエト時代より生活水準や経済が落ち込んでしまい、世界の東西を分かつアメリカに世界の超大国の地位を独占されている21世紀、強いロシアをもう一度と考える人にとっては、今でも尊敬の対象だったりする。
第二次世界大戦では、スターリンだったからドイツに勝てたと言われたり、スターリンだったからこそ犠牲がすさまじいことになったとも言われている。
スターリン体制下における粛清や農業集団化による飢餓などの犠牲者は、独ソ戦(大祖国戦争)の死者よりも多いとする見解もある。
ああ、私もやるべきだった。将校の大粛清を! スターリンのようにな!
Ich hätte gut daran getan, vor Jahren alle höheren Offiziere liquidieren zu lassen, wie Stalin!
映画『ヒトラー 〜最期の12日間〜』あるいはそこから派生した「総統閣下シリーズ」で有名な上記のセリフで、スターリンという名前だけが聴き取れたを知ったという視聴者もいるに違いない。
では、この時、一体どれだけ軍の関係者が粛清されたかというと。
ソ連邦元帥5人中3人、国防人民委員代理11人全員、最高軍事会議のメンバー80人中75人、軍政治委員16人全員、軍団政治委員28人中25人、軍管区司令官13人全員、陸軍司令官15人中13人、海軍提督9人中8人、軍団司令官85人中62人、師団司令官186人中154人、旅団司令官406人中220人、大佐クラスの将校3/4、全将校の1/4ないし1/2(高級将校に限ると7割弱)。
明らかにやりすぎです。本当にありがとうございました。
だが、このような強烈なエピソードに惹かれる同志諸君が存在するのも、また事実である。
影武者説
一般によく知られるスターリンの姿は影武者である、というのは昔からよく言われる俗説である。
スターリンは幼少に天然痘に罹患しており、肌には大人になっても「あばだ」が残っていたとされる(「天然痘」の画像検索には注意)。残っているスターリンの写真は肌が荒れているものもあるが、絵は全て綺麗な肌になっている。
また、同じく幼少の馬車事故によって左腕に機能障害が残っていた。なので、ポツダム会議では左腕は殆ど動いていない。つまり、両手で拍手をしている場面などは影武者である可能性が高い。
晩年は疑り深くなっていた関係もあって、多くの公式の場には影武者が出向いていたと思われるが、この影武者と呼ばれる人物の詳細は全く伝わっていない。影武者の方が先に亡くなったのか、スターリンの死後はひっそり暮らしたのか、それさえも不明である。
死後、レーニン廟に一時安置された際にはエンバーミングされて肌のあばだなどが隠された関係で、本当の顔は殆ど伝わっていない。だが逆に、荒れているのを隠すことができる程度の肌であったなら、『自分しか信用できない』スターリンが肌を化粧で綺麗にし、自分で出向いていた可能性ももちろんある。
余談だが、長男のヤーコフ・ジュガシヴィリの息子で、スターリンの孫にあたるエフゲーニ・ヤコヴィレヴィチ・ジュガシヴィリはスターリンに最も近い世代の血縁だが、その顔だちは写真や肖像画のスターリンの面影を確かに残している。予想でしかないが、スターリン本人の顔立ちも、決して絵や写真と極端にかけ離れていたということはないだろう。
スターリン語録
- 愛とか友情などというものはすぐに壊れるが、恐怖は長続きする
- 死が全てを解決する。人間が存在しなければ問題は起こらない
- 投票する者に決める力などない、投票を集計する者に全てを決める力がある
- お前はスターリンなんかじゃない。もちろん私も違う、スターリンとは個人ではない、ソヴィエトの権力そのものなのだ! (息子のワーシリーがスターリンの名で権力を濫用した時に、彼を叱責した時のものと言われる。)
ちなみに、これら以上によく挙げられる「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字だ」という言葉は、スターリンのものであるという根拠が実はない。ナチスのアドルフ・アイヒマンの逸話と混同され、「いかにも言いそう」というだけで広まったものと考えられている。言葉自体の初出は、ドイツの作家エーリヒ・レマルクだとか18世紀のイギリスの詩人だとかいろいろ言われている。
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関連項目
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