中島作太郎とは幕末の土佐脱藩浪士、海援隊士、明治時代の政治家である。
概要
弘化3年(1846年)8月15日、土佐の郷士中島猪之助の家に生まれる。諱は信行。
尊王の志を持ち、元治元年(1864年)11月に脱藩、長州に渡る。
慶応3年(1867年)の初め頃に坂本龍馬の亀山社中(後に海援隊に改称)に参加。鼻っ柱の強いところを坂本に気に入られていた。同志の陸奥陽之助(宗光)とも仲が良く、後に陸奥の妹を娶っている。
オランダのハットマン商会から小銃を買い付けて坂本と共に土佐に持ち込んだ後、いろは丸賠償交渉を任され長崎に向かう。交渉を終えて京都に向かう途中の9月21日に大坂で坂本暗殺の知らせを聞き、坂本の遺志を継ぐと宣言した。
維新後は新政府に出仕し、外国官権判事、兵庫県判事などを勤めた後、明治3年(1870年)から約2年間海外に遊学。帰国後は元老院議官などを勤めたが、明治14年(1881年)の自由党結成時に副総理に就任。板垣退助と共に自由民権運動を主導した。
明治23年(1890年)、第1回衆議院議員総選挙にて立候補。当選し初代衆議院議長に就任。その後イタリア公使や貴族院議員を歴任した。
関連項目
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