概要
新田、日田などとも書くが、義国流河内源氏の新田氏とは無関係。父母すら分からず、伊豆国仁田郷を本願地にしていたくらいしかよくわかっていない。
石橋山の戦いで源頼朝に従い、文治3年(1187年)1月に仁田忠常が倒れた時は源頼朝本人が見まいに来るほど信任を勝ち得ていた。以後、源範頼軍に従った平家攻めや、奥州合戦にも従軍し、曾我兄弟の敵討ちの事件では曾我祐成を討ち取る功績をあげている。
かくして、源頼家の信任も得ていたのだが、比企能員の乱の時に北条時政の命令で比企能員を襲撃し、彼を誅殺。ところが源頼家が回復すると頼家から北条時政討伐を命じられながらも、この勲功を得るために北条時政の屋敷を訪れる。さらに、あまりにも帰りが遅かったことから兄弟・郎党が暴発して謀反の嫌疑をかけられてしまい、最終的には北条時政の屋敷から御所に向かう所を、加藤景廉に殺されてしまった。
関連項目
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