源頼家(1182~1204)とは、鎌倉幕府第2代将軍である。
概要
源頼朝と北条政子との間に生まれた。乳母夫には平賀義信が就任し、7歳で御着甲始、9歳で下河辺行平が弓馬の師に付けられ、順調に頼朝の後継者として英才教育されていく一方、側近は乳母の縁者で固められ、北条氏とは距離を置かれていった。
1195年の源頼朝の上洛に付き従い参内。1197年には従五位下右近衛少将に叙される。1199年には左近衛中将に転任する。
こうして迎えた1199年1月13日の源頼朝の死没に、朝廷からは遺跡継承の宣旨を賜る。しかし4月12日には早くも将軍の直断が停止され、宿老十三人の合議制に移行する。頼朝の独裁体制を継承し、世代交代も進めようとした頼家は早くも衝突したのである。さらに安達景盛の妾を側室としようとしたことから、比企党であった安達氏の北条党への鞍替え、北条政子との衝突が生じる。
10月27日に北条時政の娘で阿野全成の妻であった阿波局の密告により、梶原景時が失脚。1200年になると頼家が従四位上に昇進する一方、景時が駿河で撃たれる。景時は、平賀氏が平治の乱以来の長老格であった平賀義信から、その息子で北条時政の娘婿であった平賀朝雅に世代交代する中、頼家のもっとも有力な支持者であり、京都の九条兼実、慈円らには源実朝擁立の陰謀をつかんだ景時をかばいきれなかったことは最大の失策であったと後々語られている。この後、頼家は従三位に叙された一方、鎌倉幕府の「公式」記録である『吾妻鏡』には狩猟と蹴鞠の記事が多くなる
さらに1201年、世代交代によって不安定な政権になったと判断した越後城氏が京都と越後で挙兵する、建仁の乱が起きるが、わずか4か月で鎮圧される。このころから『吾妻鏡』には政務を投げ、蹴鞠に没頭する姿が描かれる。
1202年になると正三位、次いで従二位に叙される。そして1203年、源実朝の乳母夫であった頼朝の弟・阿野全成を謀反の咎でとらえ誅殺する、阿野全成事件で比企能員の変の前哨戦が始まる。この結果北条時政が実朝の乳母夫となる。そして7月、頼家は大江広元邸で倒れて重体に陥り、将軍の後継問題が浮上する。9月2日に比企能員を北条時政が謀殺し、北条政子は比企氏謀反を宣言して討伐する。9月5日ようやく意識を取り戻した頼家に、もはや打てる策はなかった。
こうして9月7日頼家は出家に追い込まれ、修禅寺に幽閉。1204年に殺害された。
先例を無視し、遊興にふけった暗愚な二代目として名高い人物であるが、その姿は後世北条政権が確立してから書かれた『吾妻鏡』に描かれたものであり、京都の公家による同時代の記録をふまえると、政務の刷新を図るも、若さゆえに陰謀を乗り切れず、翻弄された人物という方が近いかもしれない。頼家の支持勢力は平賀義信、加賀美遠光、河越重頼、比企能員、梶原景時といった人々であり、北条時政が頼家の傍から外されたことで、北条氏との対立が生じたとされる。
また支持勢力が次第に壊滅していった頼家は、狩猟や蹴鞠を通じて独自に近習を組織し、比企宗員、比企時員、小笠原長経、北条時連(北条時房)、和田朝盛、中野能成、細野兵衛尉、壱岐判官知康、紀行景、源性、義印といった、源家一門、比企、北条といった親族集団に一能の人々を加えたバランスの良い編成となっている。
とはいえ、頼家が東国武士の不満を抑えきれず、わずか4年で政権を崩壊させたのも事実であり、施政者としてはほとんど特色も残せないまま敗れ去り、近年様々な史料によって再評価されつつある弟・源実朝以上に扱いの難しい、そんな人物であった。
また頼家には一幡、公暁、栄実、禅暁の4人の息子と、娘・竹御所がいた。しかし一幡は比企能員の変で誅殺、公暁は源実朝の暗殺後始末され、栄実は和田合戦の余波で、禅暁は実朝死後の混乱の中で同じく誅殺される。さらに竹御所も4代将軍九条頼経の正室となるが、男児を死産すると同時に死去。こうして頼朝の子孫はすべて絶えることとなった。
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