伊藤勲単語

イトウイサオ
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伊藤勲いとう いさお)とは、元プロ野球選手である。故人。

概要

1942年5月14日生まれ。宮城県仙台市出身。父親がいわゆる転勤族であったため幼少期から各地を転々としていたという。

東北高等学校に進学。強肩強打の捕手としてプロからも注され、3年時には夏の甲子園大会に出場している。

1961年大洋ホエールズに入団。

入団3年1963年、40試合に出場するなど徐々に出場機会を得ていく。

1964年土井淳から正捕手の座を奪い、125試合に出場しオールスターゲームにも初出場。打撃では13本塁打、51打点記録した一方で、打率.217セ・リーグワーストの100三振と経験の浅さからか粗さも立った。

以降大洋の正捕手として活躍し、毎年100試合以上に出場。1968年には打率.188と低打率ながら14本塁打を放っている。

1969年にはセ・リーグ最速で10号本塁打を放つなど開幕から絶好調だったが、交通事故で一時離脱。それでも最終的には規定打席に初めて到達し、打率.266、23本塁打、60打点とキャリアハイの成績をマーク

その後も正捕手として攻守に渡りチームを支えたが、1975年からは福嶋久晃の台頭や、移籍加入の「ダンプ」こと辻恭彦らの存在もあり、2,3番手の捕手という立場となり、打力を活かすために外野手として起用されることもあった。

1979年、兼任監督であった野村克也の解任以降、捕手不足で悩まされていた南海ホークス佐藤道郎とのトレードで移籍。移籍初年度は黒田に次ぐ2番手捕手としてプレーし、打率.251、10本塁打マーク。翌1980年は守備面で衰えが見られたことから、指名打者代打で起用され、打率.279、5本塁打記録

1981年は一軍出場0に終わり、同年限りで現役を引退

引退後は大洋に戻り二軍バッテリーコーチに就任。市川和正を育成した。

大洋退団後は解説者として活動。2004年にはNTT日本コーチに就任したが、体調不良のため2006年に退部。

2007年5月26日がんのため死去。享年65歳

人物・エピソード

り強いリードと強肩を武器に低迷期の大洋を支えた捕手。打撃面では確実性には欠けるものの一発のある長打力が魅力であった。遠征試合や本拠地以外での催試合等、いわゆる『ドサ回り』のゲームで活躍することも多かったため、「サキング」と呼ばれることもあった。

左手にテーピングを巻いていたが、これは平松政次間柴茂有ボールのキャッチングに失敗した際に痛めたものである。

大のビール好きであり、キャンプでは旅館からビールがなくなるとまで言われた。

通算成績

打撃成績

通算:20年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 1771 5064 4572 399 1054 152 495 16 54 28 355 55 850 156 .231 .292

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