大友親繁(おおとも・ちかしげ 1411~1493)とは、豊後国の守護大名である。大友家15代当主。大友家11代当主・大友親著の四男。兄に大友孝親、大友家13代当主・大友親綱、大友直親。子供に大友家16代当主・大友政親、日田親胤、日田親常、戸次親照、大友家18代当主・大友親治、大友親歳、竹中治直がいる。初名が親重で、親職と改名し、最終的に親繁と名乗った。
14~15世紀中頃までの大友氏
大友氏は鎌倉時代より豊後を中心に治める名門の大名であったが、8代当主・大友氏時の子供たちのときに南北朝時代に突入し、結果的に大友氏も二派に分かれて対立した。このまま分裂した状態でいれば大友氏は衰退するのは明白なので大友氏継(氏時の嫡男)派と大友親世(氏時の次男)の末裔から交互に当主を譲ると言う両統迭立政策が採られた。
それが凡そ80年くらい続いたが、親繁の代になって自身の子達に家督を譲ることとして大友氏の一本化を表明した。
生涯
親著の四男として誕生し、親繁が元服するころは家督は父は家督を大友持直に譲っており、彼も仕えたとされている。その後、兄の大友親綱、大友親隆と続き、1444年に舅でもある親隆により家督を継承した。家督継承時は当主経験者であった持直、親綱、親隆は存命している。(持直は1445没)
長らく疲弊していた上に支配体制もそこまで強力ではなかったため、領国経営の安定化に努めた。守護代などの職制の設置や奉行の設置により家臣団統制にも力を注いだ。
また、李氏朝鮮への貿易にも注目し、豊後国または分国であった筑後国から博多を経由して朝鮮半島のルートであったと推定される。当時の博多は日明貿易の復活もあり大いに賑わっていた。また堺のような中立都市であったため、大友氏、大内氏、少弐氏、秋月氏などの北部九州を治める大名の貿易拠点となっていた。(松浦氏に関しては所領の拠点である佐世保や平戸を貿易港としていたという。)そういうこともあり莫大な利益をあげて大友氏を安定へと導いた。
近隣勢力に影響を与えて勢力を拡大、応仁の乱では東軍に属して西軍勢力(主に大内政弘)を攻めた。1476年に嫡男・大友政親に家督を譲り1493年に83歳で病没した。大友氏を一本化に纏め上げて応仁の乱では東西に分かれることもなく戦国大名としての基盤を作り、九州の雄へと呼ばれる遠因を作った。
関連項目
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