暲子内親王 / 八条院(1137~1211)とは、平安時代末期から鎌倉時代前期の皇女である。
概要
鳥羽天皇と美福門院藤原得子の間に生まれた、近衛天皇の同母姉。誕生した翌年には内親王を宣下され、1146年には従三后となる。近衛天皇が1155年に亡くなると父親である鳥羽院は彼女を天皇にすることも考えたほどの人物であったようだ。
保元の乱後、1157年に法名を金剛観として出家。一方で1158年までには二条天皇の准母となっていた。
1160年に母である美福門院も亡くなると、翌年に院号宣下されて八条院となる。これは美福門院の死で後ろ盾を失った二条天皇が、正当な鳥羽院の後継者であったことを示そうとしたためであったともいわれている。
そんな八条院は父母から彼らの菩提を弔うため多くの所領を得、これがのちに大覚寺統が継承する八条院領となる。八条院と彼女に仕える女院司集団は、王家において大規模な仏事集団を形成していたようで、安嘉門院邦子内親王などに、その役目は受け継がれていった。
一方で二条天皇の後ろ盾であった彼女は、天皇が亡くなった後も二条天皇派の首魁となり、院政期末期から治承・寿永の乱にかけて政局の第三極としてキープレイヤーの一人とみなされていた。彼女のもとには源頼政、源行家など多くの軍事貴族が仕え、また親王宣下もされずにほったらかしにされていた以仁王一門などの皇族も養子関係を通じて結集していたのである。
そのため、以仁王の挙兵以降彼女に属する軍事貴族は一体化した動きを見せ、源義仲の挙兵もこの一連の流れに沿ったものであったようだ。しかし、安徳天皇が不在となった際の皇位継承問題において、以仁王の子息である北陸宮を強引につけようとする義仲から距離を置き、対立派閥であった後白河院と協力して後鳥羽天皇を皇位につけることにした。
その後は特に表立った行動を見せることなく亡くなり、蓮華心院に葬られた。
関連項目
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