C59とは、旧国鉄が開発、製造した蒸気機関車のひとつである。
概要
幹線用大型旅客機関車として開発されたC53型蒸気機関車は、老朽化と3シリンダー機ゆえの保守の煩雑さにより代替機の製作が必要となった。この代替機として「C53よりも強力な牽引力を持つ2シリンダー機」として設計、製造されたのがC59であり、登場後は幹線の特急・急行列車牽引に使用された。走行性能もよく現場の信頼も高い部類だったようである。
製造両数は173両。製造時期によって前期型(C59 1~100号機)と後期型(C59 101~193号機 ※133~155号機欠番)の2タイプに分類できる。
しかし戦後になって地方幹線にまで電化が進むと、大型のため使える線路が限られることがネックになった。地方線区運用に合わせて本形式から改造されたC60型もいたが、改造を受けなかったものでは早々に廃車されるものが続出してしまった。1970年までに全ての車両が引退している。
この機関車の運用でよく知られる列車としては引退間際の呉線の急行「あき」の牽引がある。さらに九州ではC62の運用がなかったこともあり、下記のとおり多くの寝台特急を牽引した大型蒸機のスターとしてこの機関車が挙がることが多い。
この機関車の1号機は現在、門司港駅そばの九州鉄道記念館にて、きれいに仕立て直されて静態保存されている。国鉄(現JR九州)の小倉工場では、「何かの記念になるから大事にとっておこう」という理由で保存していた、とのことだった。宝物はその価値がわかる頃にはもう失われていることが多い。関係者の慧眼には感服するばかりである。
上述の理由により、SLブームが起こる前にほとんど姿を消していたこともあって完全な保存機は全国でわずかに3両である。1号機の他には、広島市の161号機、京都鉄道博物館の164号機しか無い。両機は、急行「あき」を最後まで牽引した3両のうちの2両である。残る1両、162号機も煙室扉と動輪だけ姿をとどめている。割と最近まで、大阪府吹田市のJR西日本の研修施設に166号機が保存されていたが、2006年に解体されてしまった。なぜ梅小路蒸気機関車館に持って行かなかったJR西日本!。
九州ブルートレイン牽引機としてのC59
20系客車導入後、そして九州内電化開始の後にもC59はC61・C60らとともに門司駅からの特急客車列車牽引を行っていた。関門トンネルを走りぬけてきたEF30電気機関車は鹿児島本線で運用可能な性能を持たない、関門連絡専用機であった。鳥栖まで電化されている関係上交流機関車ED72も使えたが、頭数も十分ではなかった。C59たちが門司にてEF30から直接付け替えて走ると非電化区間を通し運転できるメリットがあり(C59は博多・熊本まで、C60・C61は長崎・西鹿児島まで。)、機関区には甲組と呼ばれるSL運転士のエースがおり、運用に慣れて走行性能のよい蒸気機関車がまだ黎明期の電気機関車をさしおいて働けたということに理由があるものと思われる。上記にあるC59の1号機は青ナンバー。ナンバープレートの数字及び枠以外の部分を青に塗っていた。ブルートレイン牽引機のプライドをもにじませる機関車である。
改造形式・C60
地方線区に移れるように従台車(運転室の下にある台車)を1軸→2軸に交換して線路に与える荷重を分散した形式がC60である。全47両が誕生した。牽引力が若干低下した以外はC59の性能をそのまま引き継いでおり、それまでC57で牽引していた客車特急の牽引両数を増やすことにつながり、輸送力アップに寄与したとされる。
もともとは、電化で居場所を追われたC59を100両改造する算段であったが、電化やディーゼル化といった近代化の進展が予想より順調であったことから、この計画は実現しなかった。また、機関士にとって、自動給炭機がないC59由来のC60は運転時の負担がC61より大きく、あまり好まれなかったようである。
C60の引退は東北地方では1968年、九州地方では1971年であった。保存されているのは仙台市青葉区西公園の1号機(C59 27から改造)ただ1両である。
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