ジーン・マーチン(Thomas Eugene Martin)とは、元プロ野球選手である。
| OB | |
|---|---|
| ジーン・マーチン Gene Martin |
|
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | ジョージア州 |
| 生年月日 | 1947年1月12日 |
| 身長 体重 |
183cm 86kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投左打 |
| 守備位置 | 外野手、内野手 |
| プロ入り | 1965年 |
| 引退 | 1981年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
1947年1月12日生まれ。アメリカ合衆国ジョージア州出身。
1965年のMLBドラフトにて、3巡目でワシントン・セネタースから指名され契約。
プロ入り後、1968年に初めてメジャー昇格を果たし9試合に出場したが、この年以外メジャー出場は無し。その後はマイナーで一定の結果を残すものの昇格できない日々が続き、1972年にはメキシカンリーグにも挑戦。1973年、アメリカに戻り、3Aで本塁打王と打点王の二冠を獲得したが、メジャーに昇格することはなかった。
1974年、中日ドラゴンズと契約。獲得オファーが届いた際には難色を示していたようだが、マーチンの素質に惚れ込んだ与那嶺要監督直々の説得により誠意が伝わり、入団を決めたようである。
初年度の1974年、開幕からしばらく結果を残せない試合が続き、徐々に適応。4番打者として結果を残していき、打率.269、35本塁打、87打点を記録し、読売ジャイアンツのV10を阻止してのセ・リーグ制覇に大きく貢献。ベストナインにも選ばれた。
1975年、マークが厳しくなったこともあり、打率.258、22本塁打、62打点と前年より成績を落としてしまう。
1976年、NPBシーズン最多タイ記録となる1試合2本塁打以上を10度記録するなど、シーズン通して好調を維持し、打率.281、40本塁打、104打点と好成績を残した。
その後も中日の4番打者として、1977年には打率.282、31本塁打、78打点、1978年には打率.288、33本塁打、84打点としっかりと結果を残し続けた。だが、1978年シーズンオフに自由契約となってしまった。
1979年、横浜大洋ホエールズに入団。打率.252、28本塁打、82打点と前年よりやや成績を落としたが、4番打者としての役割は果たした。しかし、ここでも自由契約となり大洋を退団。日本を去ることになった。
その後、1981年にメキシカンリーグで1年プレーし、退団。そのまま現役を引退したものと思われる。
持ち前の勝負強さと長打力を武器に、得点源として活躍したスラッガー。固め打ち傾向が強く、打ち出すと止まらないが、スランプに陥ると長引くタイプでもあった。
人柄もよく、ファンからも愛されていた。中日退団時には抗議の投書が球団事務所や中日新聞社に殺到したという。
ヒゲがトレードマークであった。また、薄い頭髪も特徴であったが、本人は薄さを気にしていたようであり、頭髪をなるべく見られないよう、ヘルメットから帽子にへの早替えは名人芸の域であった。大洋時代、同じく頭髪の薄さに悩んでいた山下大輔に、この技を伝授している。
| 通算:7年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| MLB:1年 | 9 | 11 | 11 | 1 | 4 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | .364 | .364 |
| NPB:6年 | 746 | 2864 | 2562 | 346 | 698 | 189 | 498 | 6 | 0 | 21 | 262 | 19 | 441 | 51 | .272 | .344 |
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最終更新:2025/12/05(金) 18:00
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