モデスト・ムソルグスキー(1839~1881)とは、ロシアの作曲家である。
カレヴォの地主の家に生まれた。幼少期は英才教育を施され、特にピアノが得意だったという。その反面農民たちと接し、民謡や舞曲にも多く触れていた。
当初は近衛士官学校に入学し、音楽の勉強も続けながら軍隊生活に移る。しかし17歳の時、軍医として勤務していたアレクサンドル・ボロディンと出会い、彼を通じてアレクサンドル・ダルゴムイシスキーや、ロシア5人組の他のメンバーと知り合う。そうしてミリイ・バラキレフに音楽教育を施され、作曲家としてのキャリアをスタートさせた。
しかし22歳、1861年に意外なところから不幸が彼を襲う。それこそ時のツァーリ、アレクサンドル2世による農奴解放令である。かくして地主である実家は生活基盤を失い、ムソルグスキーも音楽家の道に進みつつ、生活のために本業を持たなければならなくなった。こうして運輸省に就職したムソルグスキーであったが、勤務に支障をきたしあっさり解雇。母親の死の悲しみもあってアルコールに溺れてしまう。
30歳になると林野局に務めるが、アルコール依存症は変わらず、41歳のころ再度解雇される。しかし一方で音楽家としてのキャリアは順当に積み、民衆の生活に共感し支配階級に風刺的な歌曲などもを作っていく。ピアノ組曲『展覧会の絵』、交響詩『禿山の一夜』などが今日でもよく演奏される代表作である。しかし、アルコール依存症はムソルグスキーの体を確実にむしばみ、わずか42歳で亡くなることとなった。下の関連商品でCDジャケットの絵にもなっている、ムソルグスキーの有名な肖像画は死の直前に描かれたものである
このような人生を歩んだため、彼の評価は死後行われることとなる。海外ではナジェージダ・フォン・メックのもとでアルバイトをしていた、クロード・ドビュッシーがいち早くムソルグスキーを評価し、20世紀に入ってもドミトリー・ショスタコーヴィチが遺された作品の補筆を行うなど、ロシアの中でも人気の作曲家となったのである。特に、ピアノ組曲『展覧会の絵』はモーリス・ラヴェルによって管弦楽曲に編曲されたほか、プログレバンドのエマーソン・レイク・アンド・パーマーにアレンジされたものも有名である。
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最終更新:2024/12/27(金) 02:00
最終更新:2024/12/27(金) 01:00
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