一色範氏(?~1369)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
一色範氏は1333年、元寇の乱の際には三河でほかの足利一門とともに足利高氏に合流したのが初見である。その後建武政権への離反から足利高氏に付き従い、多々良浜の戦いで菊池武敏を打ち破った後は九州探題として九州をおさめる役割を任じられたのだ。
ところが、少弐氏、大友氏、島津氏の西国三人衆は足利尊氏についていたものの、九州探題の設置には否定的であった。観応の擾乱で足利直冬が九州に拠点を構えたこと、1341年に後醍醐天皇の息子・懐良親王が下向してきたこともあり、統治対象である各家は北朝・南朝・直義派に離合集散してしまったのである。当然一色範氏はその対処に苦慮することとなった。
その台風の目となったのが少弐頼尚であり、彼は足利直冬が九州に下向するとこれを大宰府に迎えたのだ。加えて、中央で高師直らが誅殺され直義派が優勢になると、足利直冬は長門探題に正式に任じられ、こうして九州探題は実権を持たない役職と化したのだ。
さらに、1352年、足利直義が亡くなり足利直冬が長門に下ると、一色範氏は大宰府を奪還したが、少弐頼尚は今度は南朝方についたのだ。そして懐良親王と連合し、1353年に針摺原の戦いで大宰府は南朝方に落ちたのである。
この最大の要因が足利尊氏が九州の武士たちに遠慮して、当時の九州探題に権限を与えなかったことにある。一色範氏は直轄地も守護国もなく九州をおさめなければならず、訴訟権も裁判権もないまま時が過ぎ去っていった。1346年に息子の一色直氏に引き継がせることとなったが、彼もまた同様であったようだ。
そして1355年南朝軍の博多侵攻を受けて親子そろって九州から逃亡し、その後一色範氏は隠棲して暮らし、そのまま亡くなった。しかし次男の一色範光の系統が将軍に重用され、以降一色氏は中央幕政で重んじられていくこととなるのである。
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最終更新:2025/12/06(土) 00:00
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