| OB | |
|---|---|
| 久保征弘 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 大阪府大阪市 |
| 生年月日 | 1940年4月2日 |
| 身長 体重 |
181cm 75kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1959年 |
| 引退 | 1970年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
大阪府立港高等学校に進学。エースとして活躍したが、甲子園大会には手が届かなかった。
入団からしばらくは結果が残せず、初年度は一軍登板なし、2年目は4試合に登板し0勝1敗に終わっている。
1961年、主にリリーフとして起用され、50試合に登板したが、0勝8敗、防御率4.00となかなか結果を残せないでいた。
1962年、開幕から先発投手陣の一角として起用され、中継ぎ投手や抑え投手としても登板を重ねるなど獅子奮迅の活躍を見せ、オールスターゲームにも出場。最終的にはパ・リーグ最多の66試合に登板し、28勝21敗、防御率3.02と大きく飛躍し、パ・リーグ最多勝投手に輝いた。
翌1963年も先発・リリーフ双方で大車輪の活躍を見せ、2年連続でオールスターゲームにも出場。19勝12敗、防御率2.36と前年以上に安定感のある投球を披露し、最優秀防御率のタイトルを獲得した。
1964年は主に先発投手として起用されたが、10勝18敗、防御率3.76と成績を落としてしまう。
1965年、3勝16敗、防御率4.03と成績不振に陥り、1966年は1勝5敗と低迷が続いた。
移籍初年度はほぼ中継ぎとして起用され、54試合に登板し、勝利は挙げられなかったが防御率は3.00と復調の兆しを見せた。しかし翌1968年は8試合の登板に終わってしまう。
1969年、阪神タイガースへ移籍。ジーン・バッキーに代わる先発投手として期待されたが2シーズンで登板0に終わり、1970年、現役を引退。
引退後は阪神に残り、二軍投手コーチを始め、育成コーチ、用具係、サブマネージャー、二軍資料担当、スカウト等など、コーチだけでなくフロントや裏方など様々な役職を務めた。
ナックルのようにブレる独特の『久保ボール』と呼ばれた変化球を武器に活躍した右腕。制球力も高く、先発・リリーフ双方で登板を重ねたタフネスっぷりも持ち味であった。
1963年8月の阪急ブレーブス戦では阪急打線に5連打を許しながら相手の走塁ミスが重なり無失点に抑えるという珍しいイニングを経験、アウトは全てタッチアウトであった。この試合で久保は完投勝利を挙げている。
| 通算:9年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 348 | 32 | 7 | 61 | 86 | --- | --- | .415 | 1208.1 | 289 | 489 | 547 | 448 | 3.34 |
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/06(土) 00:00
最終更新:2025/12/06(土) 00:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。