湯舟敏郎(ゆふね としろう)とは、元プロ野球選手である。
OB | |
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湯舟敏郎 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府貝塚市 |
生年月日 | 1966年10月8日 |
身長 体重 |
176cm 82kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1990年ドラフト1位 |
引退 | 2001年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
興国高等学校に進学。当時は投手としてではなくクリーンナップを打つ外野手としてプレーしていた。
卒業後は奈良産業大学に進学。創部したてのチームでエースとして活躍。2年春にチームを近畿学生リーグ1部に昇格させると同年秋に優勝、以降のリーグ戦では5連覇を達成。4年時には日米大学野球の日本代表メンバーにも選出された。
卒業後、本田技研鈴鹿に入社。1年目にはNTT東海の補強選手として都市対抗野球大会に出場するも、初戦で野茂英雄擁する新日鐵堺に敗退。翌年は本田技研を都市対抗に導き、社会人野球日本選手権にも出場しベスト8まで勝ち進んだ。また、全日本代表にも2年連続で選出された。
1990年ドラフト会議にて、小池秀郎のハズレ1位として阪神タイガースから指名され入団。
初年度の1991年、オープン戦で結果を残し、中村勝広監督から太鼓判を押され、新人ながら先発ローテーションに定着。成績こそ5勝13敗、防御率4.66と大きく負け越したが、3完投2完封勝利と先発投手としてのポテンシャルは示した。
1992年、6月の広島東洋カープ戦でノーヒットノーランを達成するなど頭角を現し、11勝8敗、防御率2.82と抜群の安定感でチームの2位躍進に大きく貢献。
1993年、前年エース格として活躍した仲田幸司が不振に陥る中、湯船は開幕から勝ち星を積み重ねていき、両リーグ10勝一番乗りを果たしてオールスターゲームにも初出場と躍動。後半戦はやや失速したものの12勝6敗、防御率3.52の成績を残し、阪神の左のエースの座を確かなものとした。
1994年、初めて開幕投手を任されると、安定した投球内容で初の規定投球回に到達。最終的には防御率3.05と好成績を残したが、打線の援護がなく5勝7敗と負け越してしまう。
1995年、2年連続で開幕投手を任され自己最多の157奪三振を奪ったが、5勝13敗1セーブと大きく負け越しセ・リーグ最多敗戦投手となってしまい、防御率も3.96ながらセ・リーグ最多失点となる81失点を喫した。
1996年、5勝14敗2セーブで2年連続で最多敗戦、防御率も4.84と低迷。シーズン途中には先発ローテーションを外されるなど苦しいシーズンとなった。
1997年、前年の不調から復活し10勝6敗、防御率3.56の成績を残し、チームの最下位脱出に貢献した。
1998年、開幕直後に足を骨折しシーズンをほぼ棒に振ってしまう。この故障が響いたのか、以降の年は本来の投球ができず低迷が続いた。
2000年オフ、酒井弘樹・平下晃司らとのトレードで北川博敏らとともに大阪近鉄バファローズに移籍。
新天地の近鉄ではリリーフとして活躍し、37試合に登板し1勝、防御率5.35の成績を残し、チームのリーグ制覇に貢献。同シーズン後、現役を引退した。
引退後、阪神で1シーズン二軍投手コーチを務めた後、解説者・評論家として活動し、焼肉店も経営していた。その後2012年に再び二軍投手コーチに就任し、2014年まで務めた。
現在は解説者・評論家として活動しつつ、母校である奈良産業大学のアドバイザリースタッフも務めている。
ピンチの場面でも少し微笑んだような表情で淡々と投げ込むポーカーフェイスのエース左腕。安定感のある投球で藪恵壹とともに阪神暗黒時代の投手陣を支えた。
入団時に既に結婚し子供がいたため、子連れのルーキーとしても話題となった。
通算:11年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 257 | 25 | 10 | 60 | 79 | 3 | --- | .432 | 1182.1 | 502 | 929 | 564 | 524 | 3.99 |
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最終更新:2024/12/23(月) 02:00
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