保高(海防艦)とは、大東亜戦争末期に大日本帝國海軍が建造・運用した鵜来型海防艦9番艦である。1945年3月30日竣工。無事戦争を生き残った後は復員輸送に従事した。1948年4月1日解体完了。
1944年11月27日、浦賀船渠にて第5256号艦の仮称で起工。12月8日に達第381号により保高と命名され、艦種を海防艦、艦型を鵜来型に定め、1945年1月28日に進水式を迎える。2月1日、浦賀船渠内に艤装員事務所を設置して事務を開始し、2月10日に艤装員長として藤本榮左少佐が着任、そして3月30日に竣工を果たす。艤装員事務所を撤去するとともに藤本少佐が艦長に着任し、横須賀鎮守府所属の警備海防艦となる。同日発令の大海幕機密第608号ノ222ノ2により海防艦の訓練を担う呉鎮守府部隊呉防備戦隊へ部署。呉へと回航して慣熟訓練に従事する。
B-29の度重なる機雷敷設の影響で呉軍港と瀬戸内海西部は訓練に適さない危険な場所と化してしまった。これを受けて帝國海軍は海防艦の訓練を、新設された舞鶴鎮守府部隊第51戦隊に移管。新たな訓練地は機雷が敷設されていない七尾湾となる。厳重に機雷封鎖された関門海峡を突破し、4月23日に海防艦伊王とともに舞鶴へ寄港、翌24日に目的地の七尾湾へと到着した。5月5日、保高は正式に第51戦隊へと編入。毎日血の滲むような厳しい対潜訓練を繰り返した。
訓練を終えた保高は6月3日に第1海上護衛艦隊第102戦隊へ転属。7月2日、伊王、奄美、第13号海防艦とともに舞鶴を出発する機雷敷設艦常磐を護衛し、7月4日に無事大湊まで送り届ける。翌5日、第1護衛艦隊第2海防隊に転属。終戦直前の8月8日、朝鮮半島へ向かう船団を海防艦干珠と護衛して大湊を出港。この日、ソ連は日ソ中立条約を破って日本に宣戦布告し、翌日には「日本と戦争状態にあると見なす」とモスクワが宣言した。
8月15日の終戦時、保高は元山に停泊していた。同日夕刻、舞鶴へ退避する船団を干珠と護衛して元山を出発、干珠を先頭にして保高、輸送船の順に縦隊を組む。ところが湾口を通過中にソ連軍航空機が敷設した機雷が干珠の艦尾に触れて爆発。艦尾が大破するとともに乗組員3名が戦死、40名以上が負傷した。異常に気付いた保高は干珠を曳航して元山へ反転しようとするも、ソ連軍の巡洋艦2隻が元山に接近中との急報(実際はソ連駆逐艦ヴォイコフと護衛艦EK-3)を受け、干珠の桑原艦長が自沈を決意。キングストン弁を開いた約30分後に干珠は沈没した。保高は桑原艦長以下生存者を収容して元山に入港、干珠の自沈により船団の出発は1日延期となった。当日中に藤本艦長は乗組員にポツダム宣言受諾に伴う戦闘行為の停止を通達している。8月16日朝、船団を護衛して元山を出港。8月20日に船団を舞鶴まで護送した後、すぐさま大湊へ向かって翌21日に到着。しばらく現地で待機する。11月30日、海軍省の解体に伴って除籍。
航行可能の状態だった保高は、第二復員省が開庁される前から外地の邦人や軍人を帰国させるための復員輸送に従事。10月5日、バンカ島へ入港して邦人と復員兵を収容して内地へと移送。10月20日に浦賀を出発し、10月29日にパラオへ到着して復員兵と便乗者を収容、11月1日にパラオを出港して8日に浦賀へ帰投。便乗者たちを退艦させた。11月11日に浦賀を出発して16日に舞鶴へ回航。11月18日より特別輸送艦になるための改装工事を受け、武装解除、トイレや居住区の増設などを行った。改装中の12月1日に特別輸送艦に指定。横須賀地方復員局所管となり、連合国の指揮下へと入る。二代目艦長には本多敏治第二復員官が着任した。
1946年1月31日改装完了。釜山、グアム、基隆、石垣島、サンジャック、サイゴン、バンコク、葫蘆島などから復員兵を献身的に内地へと運び続けた。12月15日に特別保管艦に指定。海軍力に乏しい中華民国とソ連からの強い要望を受け、特別保管艦を米・英・ソ・中の四ヵ国で分配する事になり、抽選の結果、保高はアメリカが獲得する事になった。ところが、戦時中に生産し過ぎた護衛駆逐艦を大量に抱えていたアメリカは整備の手間が掛かる日本製の保高を嫌い、1947年7月19日に譲渡されるも即日売却。1948年4月1日に浦賀船渠で解体を完了した。
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最終更新:2025/12/08(月) 10:00
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