OB | |
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児玉泰 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛媛県東宇和郡 |
生年月日 | 1935年7月19日 |
没年月日 | 2024年2月7日 |
身長 体重 |
176cm 71kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1954年 |
引退 | 1962年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1935年7月19日生まれ。愛媛県東宇和郡(現:西予市)出身。中学時代には既に四国屈指の好投手として名を馳せていた。
松山商業高等学校に進学。高校進学に際して親戚の家庭の養子となり、「空谷泰(そらや やすし)」と改姓している。エースとして活躍し、2・3年時に夏の甲子園大会に出場。3年時の本大会では、準決勝まで3試合連続完封勝利を記録し、決勝戦でも延長13回を一人で投げ抜き完封勝利を挙げるという圧巻の内容で全国制覇を達成している。
夏の甲子園大会終了後、甲子園でヒーローとなった空谷を獲得しようと、プロ10球団での激しい争奪戦が繰り広げられた。話がなかなかまとまらなかったことから、入札制で入団先を決めるとことなり、最終的には当時としては破格の210万円の契約金で中日ドラゴンズに入団が決まった。ただ、この入札に関して高野連は何も聞かされておらず、『高校球児の進路を決定するに際して、入札制は不健全である』と激怒。松山商業は1年間の公式戦出場禁止処分が下された。後にこの出来事は「空谷事件」と呼ばれることとなった。
1954年、先発投手として16試合に登板して7勝を挙げ、防御率2.51という成績を残し、セ・リーグ制覇に貢献。日本シリーズでも1試合に登板している。
1955年は3勝6敗と低迷したが、1956年、11勝5敗、防御率1.75と復調。
1958年、旧姓の「児玉泰」に戻す。
1959年、チームのエース格として35試合に先発し、20勝11敗、防御率2.07を記録。8完封はセ・リーグトップの成績であった。
1960年以降は故障により低迷。
1962年に近鉄バファローズへ移籍したが、一軍出場はなく、同年限りで現役を引退。
重くノビのある直球と、縦に大きく割れるドロップボールを中心に奪三振の山を築いた右腕。
ダブルヘッダーの1試合目で完投勝利を挙げた後、お風呂に入り寛いでいたところ、監督が誤って2試合目の先発に空谷と書いてしまい、風呂から慌ててあがって、急遽登板したことがある。
通算:8年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 208 | 49 | 18 | 63 | 57 | --- | --- | .525 | 1051.2 | 444 | 741 | 368 | 296 | 2.53 |
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最終更新:2025/01/03(金) 15:00
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