小林一三(1873年1月3日-1957年1月25日)とは、日本の実業家・政治家である。雅号は逸翁(いつおう)。阪急阪神グループ(現在の阪急阪神東宝グループ)の創始者で、阪急電鉄・宝塚歌劇団・東宝・阪急百貨店を創設した。
ひ孫に松岡修造が、現孫(修造の娘)にタカラジェンヌの稀惺かずとがいる。
山梨県出身。現在の慶応義塾大学を卒業後、1892年に三井銀行入行。
1907年に阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道の専務(事実上の社長)に就任(社長に就任するのは1927年)
当時は沿線にほとんど人が住んでおらず、「ミミズ電車」と揶揄され採算性に疑問の声も多かったが、そのことを逆手に取り、月賦で一般のサラリーマンが買える金額の新興住宅街を開発し、終点の宝塚には宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド。現在は閉園)や宝塚歌劇団と言った娯楽施設を、始点の梅田駅には世界初のターミナルデパートである阪急百貨店を開店するなど需要の開拓に勤め、日本独自の私鉄のビジネスモデルを作り上げた。
このビジネスモデルは多くの私鉄のみならず、国鉄から民営化したJRも小林の作り上げたビジネスモデルを真似することとなった。
美術蒐集家や茶人としても有名で、一点一点自らの目で確かめたというコレクションは5500点を超え、中には重要文化財も多数存在する。そのコレクションは没後にオープンした逸翁美術館として一般に広く公開されている。
また、慶應義塾在学時代には郷土の山梨日日新聞で新聞紙面での小説の連載を持っており、宝塚歌劇の脚本を担当するなど、作家としての一面も持っていた他、宝塚歌劇団の他に阪急ブレーブスも創設し、「死後もタカラヅカとブレーブスだけは売るな」という遺言があったが、ドラ息子(ブレーブス)とドラ娘(宝塚)と揶揄されるようになり、小林の三男・米三の入婿の公平により、1988年についにブレーブスは売却の憂き目にあった。
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/28(日) 11:00
最終更新:2024/04/28(日) 11:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。