徳川義直(1600~1650)とは、江戸時代前期に活躍した大名である。
徳川家康と側室のお亀の方の間に生まれた9男。御三家の一つ尾張徳川家の初代。幼名は五郎太で、義知→義利→義俊→義直となっていく。同母兄に仙千代がいる。
関ヶ原の戦いもすでに終わった、慶長5年(1600年)11月28日に大坂城西丸で生まれる。慶長8年(1603年)には4歳にして甲斐国府中25万石を与えられ国主と定められた。しかしこのころは駿府で養育され、領国経営は後見の平岩親吉が行った。
慶長11年(1606年)に7歳で元服。従四位下右兵衛督に叙任される。慶長12年(1607年)には、異母兄の松平忠吉が無嗣断絶し、跡を継いで清洲城主の尾張国主となった。なお、尾張の所領を安堵する正式な領知判物は、慶長13年(1608年)に徳川秀忠から与えられたが、これは「尾張国一円」を与えるという特殊なもので、さらに、尾張徳川家には以後領知判物が与えられることはなかった(通常は代替わりごとに下付される)。
慶長15年(1610年)に徳川家康の命で名古屋に城下町を移転し、名古屋城の「天下普請」が行われた。慶長16年(1611年)には従三位参議兼右近衛権中将に叙任。ここでようやく徳川義直となる。
大坂の陣に出陣したのち、元和元年(1615年)に浅野幸長の娘・春姫と婚儀。それに伴い信州木曽と美濃国内を加増される。元和2年(1616年)の徳川家康の死去でようやく母と尾張に入国し、元和3年(1617年)には中納言となり親政を開始。元和5年(1619年)には岐阜と美濃国の一部を加増され、中部の複数の大河川の流域を中心とした広大な領地を形成。寛永年間の定めで高61万9500石となった。
元和6年(1620年)に徳川義直は、それまで徳川家康や徳川秀忠によって行われてきた家臣たちへの知行を、改めて自身で安堵して黒印状を発給する。寛永3年(1626年)には従二位権大納言に任じられ、これが尾張家の極位極官となった。
以後も徳川義直は積極的な新田開発、御三家として幕政に参画し将軍を補佐。また文武に励んで人材登用や様々な人物との交流を行い、学問でも徳川家康の「駿河御譲本」をベースにした膨大な蔵書を有し『御年譜』や『神祇宝典』などの編纂を行う。そのまま慶安3年(1650年)に江戸麹町屋敷で亡くなり、瀬戸の定光寺に祀られた。
徳川家康の息子のため稀に出る存在だったのだが、戦国立志伝への登場をきっかけにようやく定着した。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 146 | 智才 | 142 | 政才 | 166 | 魅力 | 82 | 野望 | 56 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | 62 | 智謀 | 67 | 政治 | 64 | 野望 | 53 | ||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
戦国立志伝 | 統率 | 73 | 武勇 | 81 | 知略 | 78 | 政治 | 80 |
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最終更新:2024/12/21(土) 21:00
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