古くから武士の馬や農耕馬、荷馬などで活躍しており、女性にも扱える小さな体格と木曽の山間部に耐えうる脚力を持って重宝されていた。新田義貞の軍が使っていた軍馬は木曽馬であったことが分かっている。
長らく武将たちに好まれて買い取られていたが、その影響で良質な馬が流出してしまい優れた馬が減ってしまった。そこで江戸時代の1665年(寛文5年)に名馬と名高い南部馬の牝馬を30頭導入して、木曽馬の改良を図った。また、江戸時代は経済的に苦しい農家が多かったことから小作制度が普及して、数100頭から1000頭を超える木曽馬を所有して貸し付けを行う馬主業が行われていた。
明治時代に入ると乗用馬や農耕馬として飼育頭数が増加。しかしながら小柄な馬格であったことから明治政府が求める軍馬としては不適格と判断された。国や県の指示によってアラブ種やアングロアラブ、トロッター、ハクニー、アングロノルマンといった西洋種の種牡馬が導入された。これらの西洋種の種牡馬と木曽馬の牝馬が交配されていき、更に種牡馬の牡馬が去勢されたことも相まって、純粋な木曽馬の頭数は激減して大柄な体格へと変化していった。また、大きな馬を求めて木曽馬の牡馬とアラブ種の牝馬を交配した事例もあった。
一方で馬の大型化は地元の人々にとって喜ばしい物ではなかった。そこで1917年(大正6年)に木曽系の種牡馬が配置された。大正の後期には多くの木曽馬が軽半血ないし中半血へと改良されてしまったが、郡北部の主産地では一部の生産者の努力で純血馬が保存されていたとされる。しかしながらこうした努力もむなしく1937年(昭和12年)に種牡馬は全てアングロノルマンやペルシュロンといた西洋種に置き換えられ、1943年(昭和18年)の宝玉号を最後に木曽馬系の種牡馬は全て去勢されてしまった。
第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)になると木曽馬の復元活動が開始された。幸運なことに軍人を祭る武水別神社に神馬であったことから去勢を免れた『神明号』が1950年(昭和25年)に再発見された。その神明号の直仔である『第三春山号』は種牡馬として活躍して木曽馬の復元に貢献した。
1969年(昭和44年)に木曽馬保存会が設立された。1983年(昭和58年)には木曽町開田高原で飼育されている木曽馬が、長野県の天然記念物に指定された。
日本在来馬としては中型に分類される。明治期に比べると体高が高めで、西洋種との交雑の影響が大きい地域ほど体高が高い傾向にある。
毛色はかつては月毛と河原毛が3割ほど存在していた。しかし、第二次世界大戦中の淘汰と戦後に種牡馬が鹿毛であったことから、現在では鹿毛が9割を占め、黒鹿毛・青毛・河原毛が少々いる程度である。
山間部で農耕馬や使役馬として活躍していたため、足腰は強く頑強な性質を持っている。
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最終更新:2025/12/08(月) 11:00
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