村田辰美 単語

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村田辰美(むらた たつみ)とは、元プロ野球選手である。

概要

1952年7月9日生まれ。秋田県横手市出身。

六郷高等学校に進学。在学中には県大会記録の1試合18奪三振マークし、相手打線ノーヒットに抑えたものの試合には負けた所謂「ノーヒットありラン」を経験している。

卒業後は三菱自動車川崎に入社。「2年ほど頑ればプロ入りできるだろう」と考えての入社であった。入社4年に補強選手として都市対抗野球大会に出場し活躍、自身の論見よりは時間がかかったものの、プロから注されるようになった。

1974年ドラフト会議にて、近鉄バファローズからドラフト2位名を受け入団。

プロ入り後、鈴木啓示の後継者として期待されたが、制球難のためなかなか出場機会に恵まれなかったが、1977年シーズン後半頃、キャッチボールの際にサイドスローを試したところ良い感覚であったためそのまま転向。

入団4年1978年、対左のワンポイント投手として活路を見出し、37試合に登板、5勝2敗1セーブ防御率1.82の成績を残した。

1979年先発に転向し、前期優勝のかかる最終戦引き分け以上で優勝が決まる状況で、1失点で投し引き分け、初の胴上げ投手となった。その後も活躍し球団初のリーグ制覇に貢献、12勝8敗2セーブ防御率3.42の成績を残した。

1980年は一転して打ち込まれる試合が多く、7勝7敗、防御率6.22、57被本塁打と苦しんだ。1981年防御率3.35と安定感を取り戻したかに思えたが、1982年から1983年にかけて11連敗を記録、また、1982年から1985年にかけて4年連続で負け越しで防御率も4~5点台と奮わなかった。

1986年開幕投手に抜されるとその期待に応え、小野和義と並ぶチーム最多の14勝を挙げ、1988年にも10勝を挙げた。

1989年、前半戦は先発ローテーションの一として起用されたが、後半戦になると一軍登板ゼロと出番を失い、オフ横浜大洋ホエールズへ移籍。

しかし、移籍先の横浜大洋では4試合の登板にとどまり、この年限りで現役を引退

引退後、古巣近鉄投手コーチを務め、それ以外の期間は解説者評論家として活動。

2018年からは独立リーグの06BULLSの監督を2シーズン務め、退任後はサポート&アドバイザーとして同球団の運営に携わっている。

人物・エピソード

変則気味のサイドスローを活かした巧みな投球術で先発中継ぎに活躍したサウスポー

球速自体はそれほどくなかったが、カーブスライダーシュートチェンジアップカットボールなど多変化球を駆使して打者を打ち取っていった。

解説者としては、「流れを変える一球の重みについて考えながら話すこと」を心がけて解説・評論している。

トレードマークであった。

通算成績

投手成績

通算:15年 登板 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 404 55 10 85 90 10 --- .486 1595.0 495 623 831 743 4.19

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