菊池武光(?~1373)とは、南北朝時代に活躍した武将である。
菊池武時の九男。もともと兄・菊池武重、菊池武敏亡き後、家督は弟の菊池武士が継いでいたが、武勇優れる武光を推す声が多く、兄の菊池武澄の尽力で家中の動揺が最小限で彼に当主の座が移ったという経歴の持ち主である。
1348年に懐良親王を肥後隈府城に迎えると、南朝軍の大将格として一色範氏をはじめとした幕府方の諸将と戦っていった。しかし1350年に観応の擾乱が起きると、足利直冬が下向。正平の一統もあって本来戦っていたはずの範氏が南朝に降る。そこで1352年に菊池武光は範氏とともに、大宰府の直冬を攻撃した。この時点では足利直義はすでに亡くなっており、求心力を失っていた直冬軍は総崩れになり、南朝が大宰府を占拠したのである。
ここでさらに九州のパワーバランスが代わる。足利直冬、少弐頼尚が南朝に降り、頼尚の南朝方参陣を知った一色範氏が北朝に帰順したのである。範氏は肥前に逃れ、菊池武光はこれを攻撃するが敗北。勢いをつけた範氏は大宰府攻撃を行う。そして範氏率いる北朝、武光、頼尚らが率いる南朝軍による針摺原の戦いが起きた。結果は範氏の敗走であり、一色氏は九州を去ることとなった。
続いて菊池武光は南九州の島津師久、島津氏久と畠山直顕の対立に介入する。当時島津氏も日向守護の直顕との対立で南朝に降っていたのである。これに対し1358年に武光は島津氏と協力して直顕を敗走させ、大友氏時の軍勢を突破することに成功したのだ。
しかし1359年に少弐頼尚が幕府方に寝返り、大友氏時、阿蘇惟村とともに兵を挙げる。懐良親王を奉じた菊池武光は圧倒的に不利だったにもかかわらず、嫡子・菊池武政に後方攪乱を命じて勝利し、頼尚が息子の少弐尚資と多くの軍勢を失う結果に終わったのである。しかしこれに対して頼尚は粘った。一進一退の攻防の末、ついに懐良親王が頼尚本陣に突撃し、ようやく頼尚を敗走させることに成功させたのである。
そしてこの勝利の勢いに乗じて1361年、大宰府を攻略。征西府を開くこととなった。
その後も斯波氏経、少弐冬資、大友氏時らを退け、九州は南朝優位に推移するが、ついに1371年今川了俊が派遣されてくる。了俊は大内弘世を味方につけ、松浦党、田原氏などと大宰府を挟撃。大宰府は北朝方に奪還されてしまったのだ。こうして了俊によって次第に九州が北朝に優勢になる中、菊池武光はついに亡くなったのである。以後懐良親王の勢力はさらに衰えることとなる。
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最終更新:2024/04/23(火) 16:00
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