逢坂浩司(1963.6.20 ~ 2007.9.24)とは、「機動戦士Vガンダム」「機動武闘伝Gガンダム」「機巧奇傳ヒヲウ戦記」「絢爛舞踏祭 ザ・マーズ・デイブレイク」等の作品でキャラクターデザイン・作画監督を手掛けた事で知られるアニメーターであり、川元利浩らと共に「ボンズ」を創設したメンバーの一人である。
就業時間が不規則なアニメーターには珍しい「朝から夕方」まで働く事をきちんと守り、短い時間ですさまじい集中力を発揮して大量の仕事をこなしていたと言われている。
1963(昭和38)年6月20日生まれ。大阪府寝屋川市出身。
高校時代から漫画家あだち充の作品に傾倒し、嵯峨美術短期大学(現:京都嵯峨芸術大学短期大学部)在学中から、谷口守泰ひきいる「アニメアール」にてアニメーターのアルバイトを始め、「装甲騎兵ボトムズ」「機甲界ガリアン」等のサンライズ制作のアニメ作品に参加した。
アニメアールで頭角を現すと、「星銃士ビスマルク」にて作画監督デビューを果たし、「ドリームハンター麗夢」「レモンエンジェル」「鎧伝サムライトルーパー」「獣神ライガー」にて作画監督を務めて、沖浦啓之や黄瀬和哉らと共に80年代のアニメアール黄金期を支えた。
1991年にアニメアールを退社してフリーランスとなると、後に共にボンズを設立する事になる川元利浩がキャラクターデザイン・作画監督を務めた「機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY」に参加し、ハイレベルの作画を見せた実績を買われて「機動戦士Vガンダム」にてキャラクターデザイン・作画監督を務める事になった。
アニメアール時代からキャラクターデザイナーの作風を再現することに定評があり、「蒼き流星SPTレイズナー」では師匠である谷口守泰の画風を再現し、「鎧伝サムライトルーパー」では塩山紀生の画風を、「ドリームハンター麗夢」では同僚の毛利和昭の画風を再現し、「機動戦士Vガンダム」の後番組の「機動武闘伝Gガンダム」では、自身の作風と島本和彦のデザインを見事にマッチさせ、「機動戦士Vガンダム」と「機動武闘伝Gガンダム」と言うまったく異なるコンセプトのガンダムタイトルにおいて、多くの第二期ガンダムファンを虜にした。
※「機動武闘伝Gガンダム」の最終回は、描き直し過ぎにより動画にまでクレジットされており、逢坂浩司の代表作との言えるエピソードとなっている。
「天空のエスカフローネ」「カウボーイビバップ」の制作に参加後、川元利浩や佐野浩敏と共にボンズを設立し、川元利浩と共に取締役となり、ボンズの記念すべき制作1作目となる「機巧奇傳ヒヲウ戦記」では、キャラクターデザイン・総作画監督の他、OP/EDや最終回の作画監督まで担当し、同作を気に行った逢坂浩司は、インタビューで続編を希望するコメントをだしたり、「天保異聞 妖奇士」に「機巧奇傳ヒヲウ戦記」のキャラを登場させたりした。
アニメアールのアルバイト時代から仲の良く、大学の卒業制作を手伝わせた事もある沖浦啓之が、初監督作品の「人狼」制作中に人で不足に陥って困っていたところ、ボンズのスタッフを率いて制作に参加し、窮地を救ったと言われている。
「絢爛舞踏祭 ザ・マーズ・デイブレイク」では、キャラクターデザインと共に、「天空のエスカフローネ」以来となるアニメーションディレクターを担当し、絵コンテから作画監督そして原画まで担当した。
しかし「天保異聞 妖奇士」を終えた2007年の春頃より体調を崩し、大阪の実家に戻って療養を続けていたが、2007(平成19)年9月24日、最期まで描きたいと鉛筆を握っていた願いもむなしく、ガンの為に44歳と言う若さで帰らぬ人となった。
逢坂浩司の訃報は、全国紙の新聞・インターネットで一斉に報じられ、自作をめったに自賛しない富野由悠季が「機動戦士Vガンダム」において救いだったと言わしめた男の死に、多くのファンが追悼コメントを寄せて哀悼の意を示した。
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最終更新:2025/03/16(日) 00:00
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