豊臣秀次

について語るスレ

記事をみる

38

>>

2/2

  • 31 ななしのよっしん

    2025/06/01(日) 17:23:31 ID: kVfCs53+lm

    小説だが功名が辻では山内夫妻が「待望の秀頼様が誕生した以上、それまでの約束や事情がどうあれ太が地位をが子に譲りたいと願うのは理の当然、何で即座に後継者の地位を返上をすると自分から言い出さないのだろう(の情が理解できない・潜在的に邪魔ものとなりつつある自らの保身と言う点でも危機感がさすぎる)」と評していたが、諸大名も似たような感情を持っていたかもしれない

  • 👍
    0
    👎
    0
  • 32 ななしのよっしん

    2025/08/04(月) 21:06:52 ID: AJICwA2ntD

    秀吉がどうすべきだったかはともかく、秀次が生き残るためにどうすべきだったかはその通りだろうだな
    形の上だけでも即座に返上して秀頼に譲りますと言うなり、とにかく野心がないことを示すべきだった
    身の潔の為に自害したのならなおさら

    時間を稼いでどういう形でも生き残っていれば、秀吉が死んでから復帰できた可性もあったかもしれない

  • 👍
    0
    👎
    0
  • 33 ななしのよっしん

    2025/08/04(月) 21:29:46 ID: UEnnO+3tzN

    秀次と伝わる絵の顔を見ると、あの貧弱なくせに立ちたい一心のもみあげとかその割に自信のなさそうなの表情とか、これが秀吉の跡を継いで、あのパねえ力で唇とか色々分厚いいへやすに対抗できるかと言われると…後世の残念評価にあの絵が一役買ってる気がしないでもない
    取っ組み合いしたら負けるんじゃないか

  • 👍
    0
    👎
    1
  • 34 ななしのよっしん

    2025/09/12(金) 20:18:31 ID: 43HBTqIcE9

    >>32
    豊臣秀次が潔であった、という方が難しいよね。
    理論上は関白を辞任することもできたし、なんなら秀吉
    高野山に居させている。秀吉が秀次を最初から粛清する
    つもりだったのなら、当時権力不介入扱いだった高野山に
    わざわざ送る必要がない。

    近衛前久の書状によると秀次正室の一の台の死刑
    くから決まっていたそうだし、秀次自身が謀叛を起こしていたか
    あるいは秀次はノータッチだったけど股肱や側近が謀叛を企んでいた
    性は全然あると思うんだよな。

  • 👍
    0
    👎
    0
  • 35 ななしのよっしん

    2025/09/26(金) 12:58:43 ID: 8nS/QBb01d

    >>34
    秀次が政治的にミスをした可性自体はある。
    ただ秀次が謀反ってどうやって謀反するんだ。軍事権は実質秀吉が持ってるし。
    あと「秀次は信用できない。でも徳川家康前田利家毛利輝元らは信用できる」と秀吉は本気で思ってたのかな?
    どうしても、秀次粛正後の秀吉政治ビジョンが見えないんだよな。

  • 👍
    3
    👎
    0
  • 36 ななしのよっしん

    2025/11/05(水) 19:49:06 ID: LvHCBJmUMV

    謀反についてはまあ、「秀頼を殺して己の血統を正統にするという永楽帝みたいな意図がもしあったら、それは秀吉と秀頼にとって謀反と呼ばれるべきものである」って感じだろ
    秀吉を殺せるわけがないし、秀次にその必要もない

  • 👍
    0
    👎
    0
  • 37 ななしのよっしん

    2025/11/16(日) 17:12:16 ID: XITCN+cxsj

    家康は義豊臣一門筆頭格でほぼ秀吉の身内という認識
    毛利は秀長の元養子の秀元にがせて…だったけど突然元実子の秀就産まれて白紙に 関係は常に微妙な感じ
    豊臣執事に置いてるけど上から「命じている」感はやや残った感じで「政務を委任」とまでは言ってない距離
    秀次消した後は後ろのない(生も滅亡、織田も小大名)淀殿+秀頼ら羽ないし豊臣家康の徳の一体化を推進しようとした感
    秀次の切腹が自発的(当てつけか絶望か)なのか、命でなのかは未だにはっきりしないけどその後の処理が苛だから猶更よくわからなくなってくる

  • 👍
    2
    👎
    0
  • 38 ななしのよっしん

    2025/11/17(月) 00:17:40 ID: 8nS/QBb01d

    >>37
    幕府は「徳将軍職>>(越えられない壁)>>老中(譜代大名から選出。ただし石高は高くない)」が基本構成。

    初期豊臣政権も「豊臣関白職>>(越えられない壁)>>奉行職(長束正家の5万石、石田三成の19万石など)」。

    といった、中央政治に参加出来るけど石高は高くしないという、要は室町幕府の失敗を教訓としていたはずだった。初期豊臣政権はそれが出来ていた。
    でも秀吉五大老とかいう、いかにも下上してくださいといったシステムを作った。どう考えても室町幕府の迷走の二の舞なのに。
    秀吉戦国の世で何を学んだのだろうか?

    秀次を絶対に殺す(名は何でも良い)なら高野山に入れる必要はいし、豊臣一門として秀頼の補佐をさせたいなら高野山追放はやり過ぎだ。
    何故、五大老なんてシステムを作ったのか、聚楽第を破壊、秀次をどういう地位に落としたかったのか、本当によく分からん。

  • 👍
    0
    👎
    0

>>

2/2


TOP
       

ほめた!

すでにほめています。

ほめるを取消す

 

 

OK

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

キャンセル

ログイン