ジョーダン・グランプリ単語

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ジョーダングランプリ
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ジョーダン・グランプリ(Jordan Grand Prixとは、かつてF1世界選手権に参戦していたレーシングチームである。
チーム籍登録は1998年までアイルランド1999年よりイギリスとしていたが、本拠地は当初からシルバーストーンにあった。

概要

チーム創立まで

アイルランド出身で、大学学部を中退したのちアイルランド銀行に就職し、優秀な銀行員として将来を期待されていたエディジョーダンであったが、ダブリンストライキが行われていた際に観戦したカートレースをきっかけにモータースポーツにのめり込むようになった。

エディ1979年エディジョーダン・レーシングを設立し、イギリス近辺のレースに参戦を始める。1983年にはマーティン・ブランドルイギリスF3選手権2位を獲得、1987年にはジョニー・ハーバートが同選手権を制覇し、1988年よりF3000選手権へステップアップ。翌1989年にはジャン・アレジチャンピオンとなり、F3000の強チームにまで成長した。

そして1990年に翌年からのF1世界選手権への参戦を宣言。そのために設立されたチームがジョーダン・グランプリである。

1990年代

ジョーダン・グランプリがF1初参戦を果たしたのは1991年のことである。
ジョーダン1991年シーズンのために制作したジョーダン191は、ノーズの先端がやや持ち上げられたペンシルノーズからゆるやかな曲線を描いて取り付けられる大フロントウィングが特徴で、アイルランドナショナルカラーであるツートンに塗られた優美なマシンF1ファンの間で「最も美しいF1マシンのひとつ」と評されている。

ベルトラン・ガショーアンドレア・デ・チェザリスによってドライブされたジョーダン191はプレシーズンテストから好タイムマークし、第5戦カナダGPではガショー4位チェザリス5位に入り、5戦にして記念すべきチーム初入賞記録
その後もコンスタントに入賞を果たし後半戦には予備予選を免除されるようになり、ジョーダン・グランプリは最終的に参戦初年度ながら13ポイントを獲得コンストラクターズ・ランキングで5位に入る成功を収めた。

1992年にはサソルメインスポンサーとして獲得し資金面を安定させる。その92年は期待されたヤマハV12エンジンとシャシーマッチングに苦しみ低迷。93年は一転して非力ハートV10エンジンとなって、悪時以外はやはり入賞もままならなかった。だが、1994年には参戦2年の若手、ルーベンス・バリチェロが第2戦パシフィックGPでチーム初の表(3位)を、第11戦ベルギーGPではスパ・ウェザーを味方につけポールポジションをもたらした。

95年にプジョーエンジンの採用をきっかけにトタルメインスポンサーとなったのち、翌96年からベンソン&ヘッジスがメインスポンサーとなり、1997年からはジョーダンといえばこの色をイメージするF1ファンも多いであろう黄色体のカラーリングとなった。この時期はそれなりの成績を上げるものの、当時の上位4位チーム(マクラーレンフェラーリウィリアムズベネトン)の壁は厚く、あくまで中堅チームという位置づけは変わらなかった。

1998年ベネトンミナルディとの争奪戦を制し無限エンジンを獲得、ドライバーラルフ・シューマッハデイモン・ヒルという布シーズンに臨んだ。
前半戦こそ苦戦したが、中盤戦から次第にパフォーマンスが向上。そして第13戦ベルギーGPではで荒れに荒れたレースヒル優勝ラルフ2位に入り、チーム優勝を1-2フィニッシュで飾った。そして、コンストラクターズラキング4位に入り、長く続いていていた4強の壁を打ち破ったのである。

1999年にはラルフに代わりハインツ=ハラルド・フレンツェンが加入し、開幕戦オーストラリアGPで表台を獲得すると、第7戦フランスGP、第13戦イタリアGPで2勝を挙げ、タイトル争いに絡む大活躍を見せ、チームも61ポイントを獲得しコンストラクターズラキング3位にまで浮上した。 

2000年代

しかし2000年シーズンに向け、さらなるステップアップして開発されたマシンEJ10は神経質な上に信頼性に問題があり、フレンツェンは2回の表台に留まり、引退したヒルに代わって加入したヤルノ・トゥルーリは表台に登ることさえできなかった。
2001年にはホンダエンジンを獲得するも、成績は低迷、スポンサー資金が少なくなる。フレンツェンは諸事情によりチームを途中離脱。ジャン・アレジが代役を務めた。
2002年にはメインスポンサーベンソン&ヘッジスが支援を大幅に縮小したことでチームは下降線を辿るようになる。DHLが代わってメインスポンサーとなるも、資金は明らかに絞られてしまった。トゥルーリチームに見切りをつけてルノーに移籍。ジャンカルロ・フィジケラが戻ってきた。そして、ホンダからの援助への期待もあってか、昨年のイギリスF3チャンピオンであり日本人ドライバー佐藤琢磨デビューさせる。しかし、両名ともに満足な成績は残せず、磨は地元日本GPでの5位入賞を一の見せ場として一旦シートを喪失することになる。彼が後に2回もインディ500チャンピオンになることをこの時はまだ誰も知らない

2003年DHLが撤退したことによりチームの財政は危機的な状況に陥り、満足開発を行うことができなくなってしまう。また、ホンダエンジンも失い、フォードバッジの付いたコスワースエンジンになってさらに戦力ダウンした。
チーム200戦メモリアルレースとなった第3戦ブラジルGPで、大雨による混乱したレースジャンカルロ・フィジケラが制し奇跡的に1勝を挙げたが、その他のレースではミナルディと最下位を争うまでに後退してしまった。

その後もエディは資金難にあえぐチームの売却を検討しながら参戦を続ける。
2004年は引き続きコスワースエンジンを搭載。ドライバーニック・ハイドフェルドとジョルジョ・パンターノの二人となったが、表台獲得すらわず、成績不振でパンターノはティモ・グロックに交代となる。ついに2005年1月アレックスシュナイダー率いるミッドランドグループチーム売却されることになった。
エディチームを去ったが、エントリーの都合上2005年シーズンはジョーダン・グランプリ名義のまま参戦。トヨタエンジンを搭載したが、日本エンジン勢としてもほとんど注されることはなかった。ポルトガル人のティアゴ・モンテイロと初のインドF1レギュラードライバーであるナレインカーティケヤンの新人2人が乗るが、信頼性が一のとりえのマシン完走を重ねるのみであり、下記の状況に恵まれての3位・4位入賞が最後のジョーダン・グランプリとしてのハイライトとなった。そして第19戦中国GPを最後に、ミナルディ(レッドブルに買収されトロロッソとなる)と共にその歴史に幕を閉じた。

チームファクトリーなどはミッドランドグループスパイカーとわたり、2018年まではフォース・インディアが、2020年まではレーシング・ポイントが所有している。2021年からはアストンマーチンの名に変わり、形を変えてチームは存続し続けている。

戦績

エピソード

主な歴代ドライバー

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