「どういうことなの・・・」とは、 本格的ガチムチパンツレスリングの空耳の一つである。
(※くちばしPの初音ミク曲については「どういうことなの!?」の記事を参照)
概要
「それはどういうことなのか」と対象を疑うという行為は、知性を有する人間誰もが有する当然の感情であり、このような人間独自の心が文明のハッテンと科学の進歩をもたらしたのだ。
■疑問を持つこと
その対象および自体に疑問を持ち、自問自答するという行為は、懐疑主義と呼ばれる(対義語:独断主義)。中世においては懐疑主義を酷使し、神や存在の確かさをも疑うようになった。これが現代哲学・言語批判の始まりである。
■疑問の必要性
もし人が疑うという行為をしなかったらどうなるかを考えよう。悪意ある人々や間違った知識を受け入れ、情報や主観的事実を本当の真実と思い込むのである。これは危険である。間違いに踊らされた人間はしばし破滅の道へ迷い込む。だからこそ対象を疑い客観的、場合により主体的に(ニーチェで言うパースペクティブに)判断することが哲学の基本的態度なのだ。
「我々は疑問の種を植える。知恵の作物を収穫するために」 ──ある現実主義の修道士より
■疑問と教育
また、近年の学校教育現場(特に義務教育)においては、単に知識の詰め込みだけが行われ、生徒が自分自身で疑問を見つける機会が失われている。レスリングシリーズの動画に義務教育タグが付けられる場合が多いのは、「たくさんの物事に触れ、自らで考え、解き明かす喜びを見つけてほしい」という、若い世代への希望なのである。
たまには童心に帰り、宇宙とは、真理とは「どういうことなの?」と考えてみてはどうだろうか。
方法序説における「どういうことなの・・・」
我思う、ゆえに我あり(cogito, ergo sum)とはルネ・デカルトの有名な言葉である。一切を疑うべしという方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。
「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できないのである。このように問い続ける限り、人間は自らの存在を肯定できる。ひるがえして言えば問いを持つことこそが、人間たる証なのだ。
フッサールはデカルトの思想を受け継ぎ、人は自らの心の中に存在する現象を認識することによってのみ、世界を知覚することが可能なのだと主張し、現象学というジャンルを設立した。現象は世界ではなく、心の中で起こるのだという見地を現象学的還元という。
純粋理性批判における「どういうことなの・・・」
カントは「存在するゆえに認識できるのではない。認識するゆえに存在するのだ」と説いた。世界に起こることのすべては世界内にあるのではなく、心の中のアポステリオリ(経験により得られた価値観)というフィルターを通じ、世界を認識している。だが、いかなる人も歪んだフィルターを通してしか世界を認識することができない。
ニコニコ動画ではナウい息子を見ることはできないのと同様、「モノ♂自体」の認識も不可能なのである(カントの発音を間違えるとスケベェな意味になるので注意せよ)。『純粋理性批判』においてカントは懐疑主義を徹底している。純粋悟性概念(吾作概念?)にとどまらず、認識理性の原理を明らかにすることはできるのだろうかと過去の哲学者たちは議論してきた。
有名な空耳に「歪みねぇな」という言葉があるが、これは世界を純粋に認識すること(アプリオリ)により純粋理性による実践理性批判である。
論理哲学論考における「どういうことなの・・・」
論理学者ウィトゲンシュタインは言葉の意味を整理し、過去の哲学のすべてに決着をつけた。人間は言葉で考えることができるが、その言葉が現実と対応していないと思考は無意味になる。論理哲学論考においては第3・4・5・6命題、すなわち:
において思考とは何かを説明している。[p,ξ,(N)ξ]は何やら難しそうだが、「人はいろんなことを考えることができるが、現実と対応した思考のみが意味を持つ」ということである。
本来の意味
ある人が空耳の本来の意味を解読したところ、驚愕すべき事実が判明した。
空耳:どういうことなの・・・
原語:I know you like the bottom.
翻訳:お前が(俺の)下(の位置)が好きな事は知ってるよ。
表面上は知らないこと、本当の意味は知っていることを表している。空耳と本来の意味では意味が正反対なのである。この命題に対し、新日暮里大学哲学科は全力で研究中である。カントの哲学における二律背反ではないかと推測される。
関連動画
関連商品
関連項目
- 70
- 0pt