カカ(Kaká, 1982年4月22日 - )とは、ブラジルの元サッカー選手である。
カカは愛称で本名は、リカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイチ(Ricardo Izecson Dos Santos Leite)。カカーと表記されることもある。
バロンドール&FIFA最優秀選手賞&その他多数の個人タイトル受賞者。
現役時代のポジションは攻撃的MF。186cm83kg。利き足は右足。
概要
ブラジル・ブラジリア出身。テクニックに加えフィジカルやボディバランスにも優れ、現代フットボーラーとして総ての要素を備えた攻撃的MF。抜群のドリブルスピードを誇り、ボールを持っていない相手が追いつけないのはよくあること。ドリブル時のボールを置く位置がものすごくうまいため、シンプルに見えるドリブルもボールを取ることは難しい。パスもシュートも超一流。
21歳で名門ACミランに加わると、早くもアタッカーとしての輝きを見せつけ、並み居るスター選手たちを脇役へ追いやる活躍。ミラン5季ぶりとなるスクデット獲得の原動力となる。2006-07シーズンには「イスタンブールの悲劇」の雪辱を果すUEFAチャンピオンズリーグ優勝の立役者となり、バロンドールやFIFA最優秀選手賞など個人タイトルを総なめにする。カルロ・アンチェロッティ監督時代のミランの絶対的なエースであり、ミランに5つのタイトルをもたらしている。
ブラジル代表には20歳でデビュー。FIFAワールドカップには三度出場。2006 FIFAワールドカップではロナウド、ロナウジーニョ、アドリアーノとともに、「カルテット・マジコ(魔法の4人)」と呼ばれる強力攻撃陣を形成、2010 FIFAワールドカップではセレソンのエースナンバー「10番」を背負ったが、いずれもベスト8に終わり、主力としての優勝は果たせなかった。
本名にちなんだ「リッキー」「リッカ」という愛称で呼ばれることも多い。プレーもさることながら人間性も魅力的であり、誠実な人柄で敬虔なクリスチャンとしても知られている。2017年に現役引退をした後はサッカー代理人として活動している。
経歴
生い立ち~サンパウロFC
1982年4月22日、ブラジルの首都ブラジリアで生まれる。父親は建築技師、母親は数学教師という比較的裕福な家庭で育ち、3つ下には後にサッカー選手となる弟ロドリゴがいた。「カカ」の通称はまだ幼い弟が「リカルド」と発音できずに、こう呼んだのが由来となっている。
父親の転勤によりクイアバで幼少期を過ごし、7歳のときにサンパウロへ移住。父親がサンパウロFC総合スポーツクラブの会員だったことから、9歳のときにサンパウロFCのクラブ会員用のチームに加入。1993年、サンパウロFCのジュニアチームが日本の国際交流行事に招かれ、当時11歳のカカは20人の仲間とともに山形県の家庭へ2週間のホームステイしている。そのとき世話をしてくれた夫婦とは、有名選手となってからも交流を持ち続けた。
12歳となった1994年よりプロ養成のユースアカデミーに進む。当時から技術面では優れたものを持っていたが、他の子たちに比べて線が細く、サブメンバーに甘んじる日々となっていた。それでも筋力トレーニングに励み、身長の伸びとともに強靱なボディを獲得すると、当たり負けしなくなり、天賦の能力を活せるようになった。15歳のときには、サンパウロのユースチームをコパ・デ・フベニール優勝に導く。
2000年3月にはトップチームの試合に出場するなど順風満帆なキャリアを積んでいたが、同年10月にオフの期間に遊びに行った祖父母の家のプールで、滑り台から落下して頭部を強打し、脊髄損傷の重傷を負う。あわや下半身不随寸前の深刻な怪我だったものの、懸命のリハビリを経て2ヶ月後に復帰。極度の近眼になった以外は、ほとんど運動能力に支障はないという奇跡の回復を遂げた。カカはこれを神のおかげであるとし、「あの事故を契機に人生観が変わった」と語っている。
2001年シーズンにサンパウロFCとプロ契約を結ぶ。2月1日のボタフォゴ戦に途中出場し、トップチームでの公式戦デビューを果たすと、この試合で2ゴールの活躍を見せる。さらにリオ・サンパウロ・トルネイオ選手権決勝のボタフォゴ戦では途中出場から2分間で2ゴールを決め、サンパウロの初優勝に貢献。カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでは29試合12ゴールを記録し、チームの主力に定着する。
2002年シーズンはさらに勢いを加速し、カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでは22試合9ゴールをマークし、チームはタイトルを獲得できなかったものの20歳の若さで大会のMVPを獲得。甘いマスクもあってたちまちクラブのアイドル的存在となり、フル代表にも選出され、ブラジル国内でも若手の再有望株となる。その存在はヨーロッパからも注目されるようになっていた。
ミラン
2003年8月、イタリア・セリエAの名門ACミランに移籍金880万ユーロで移籍。当時のミランにはリーグでもトップクラスのゲームメーカーであるルイ・コスタが在籍しており、クラブも将来のスター候補として獲得していたが、プレシーズンマッチでのプレーを見たカルロ・アンチェロッティ監督はその才能に惚れ込み、9月1日のアンコナとのセリエA開幕戦でスタメンに抜擢。以降、ルイ・コスタをベンチに追いやる驚異的な活躍を見せ、シーズンの折り返しの頃にはすでに中心選手となっていた。トップ下でセカンドストライカーの役割を担うとともに、得点王を獲得したアンドリー・シェフチェンコをサポートし、30試合10得点の活躍によってミランの5シーズンぶりのスクデット獲得に貢献。加入1年目にして世界最高峰リーグであるセリエAのスター選手の仲間入りをする。
2004-05シーズンでは5人のMFを配置した「クリスマスツリー型」と呼ばれたシステムが採用され、シェフチェンコの後方でアタッキングサードでの崩しの切り札的な役割を担う。セリエAでは36試合7ゴールを記録したものの、ユヴェントスとのスクデット争いで及ばず2位となる。一方、UEFAチャンピオンズリーグでは2ゴール5アシストの活躍によってチームを決勝進出に導く。2005年5月25日、トルコのイスタンブールでおこなわれたリヴァプールFCとの決勝では前半に2つのアシストを記録し、3-0とリードしていた。ところが、後半になってリヴァプールの怒涛の反撃によって3点差を追いつかれてしまい、PK戦では3人目のキッカーとして成功したものの、勢いに飲まれたミランは3人が失敗。初のビッグイヤーをほぼ手中にしながら、「イスタンブールの悲劇」によってあと一歩ですり抜けてしまう。
2005-06シーズンは、これまで以上に得点力が増し、2006年4月9日のキエーヴォ・ヴェローナ戦ではセリエA移籍後初のハットトリックを達成。リーグ戦では初の二桁得点も達成し、公式戦49試合19得点とキャリアハイを更新する成績を残す。しかし、セリエAでは3位、CLではベスト4と移籍後初の無冠に終わる。シーズン終了後、カルチョ・スキャンダルの影響によって移籍の噂が浮上するが、ミランへの忠誠を誓い、残留を決断する。
2006-07シーズンはシェフチェンコが移籍したことでよりフィニッシャーとしての役割が増え、時にはストライカーとして、時にはフィリッポ・インザーギの後ろのセカンドストライカーとして、またより典型的な攻撃的MFとしてプレーするなどマルチに活躍し、ミランの攻撃の主役であることは誰の目にも明らかだった。セリエAではチームが途中からCLに比重を置くようになったことから4位に終わり、個人の成績も昨シーズンと比べると見劣りするものとなる。
ペナルティにより3次予選からの参加となったCLでは、グループステージの6試合で4ゴールを決める活躍を見せ、グループ首位での突破に貢献。決勝ラウンドに入っても圧倒的な輝きを放ち続け、ラウンド16のセルティックFC戦、準々決勝のバイエルン・ミュンヘン戦でいずれも重要なゴールを決める。クリスティアーノ・ロナウドとの対決が注目された準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦では敵地での1stレグで2ゴールを決め、サンシーロでの2ndレグでは戦況を優位にする先制ゴールを決め、チームを2シーズンぶりのファイナルへと導く。決勝は2年前と同じリヴァプールとの対決となったが、フィリッポ・インザーギの2ゴールによってイスタンブールの悲劇のリベンジに成功し、自身にとっては初となる欧州制覇を達成。通算10ゴールを記録したことで大会得点王となり、ミランの7度目のビッグイヤー戴冠への貢献度の高さが評価され、バロンドールとFIFA最優秀選手賞をダブル受賞。2007年の個人タイトルを総なめにする。
名実ともに世界最高の選手となった2007-08シーズンも好調さを維持し、2007年9月30日のカターニャ戦では25歳にしてミランでの通算200試合出場を達成。12月には思い出の地でもある日本を訪れ、FIFAクラブワールドカップに出場。12月16日のボカ・ジュニアーズとの決勝では得意の高速ドリブルからインザーギのゴールをアシストし、後半16分にはチームの4点目も決め、ミランをクラブ世界一に導く。この大会でも主役となったカカは大会のMVPに選出される。チームはセリエAでは不振に陥ったものの孤軍奮闘していたカカは30試合15ゴールを記録。この頃からミランは財政難に陥り、マンチェスター・シティから高額のオファーが届き、シーズンオフにはミラニスタが移籍を阻止しようと自宅に押し寄せる事態となるが、窓からチームのユニフォームを掲げてあらためてミランに忠誠を誓い、残留を表明する。
2008-09シーズンはオフの移籍騒動の影響など感じさせず、コンスタントに結果を残す。しかしチームはカカへの依存度を年々増していたことから負担が増え、その結果負傷も負う。パオロ・マルディーニのラストイヤーだったにも関わらず、2年連続で無冠に終わる。31試合16ゴールとさらに自己ベストを更新したカカにはレアル・マドリードから巨額のオファーが届くが、財政難が深刻となっていたミランはもはやカカをとどめておくことはできなくなっていた。本人はミラン残留を希望していたが、財政的に厳しいクラブのために「玄関から出て行く」という言葉を残して移籍を受け入れる決断を下す。
レアル・マドリード
2009年6月9日、スペイン・リーガ・エスパニョーラの名門レアル・マドリードに移籍。移籍金6800万ユーロの6年契約という巨額の取引がなされ、ジネディーヌ・ジダンがレアル・マドリードに移籍したときに次ぐ当時2番目に高額な移籍金となった。入団発表の際は5万人のサポーターが集まるという大きな期待を寄せられての加入となったが、新しい環境へのフィットに苦しみ、移籍後初ゴールは9月23日のビジャレアルCF戦となった。ところが、恥骨炎の影響もあってミラン時代のような輝きを見せることができず、8ゴール6アシストとまずまずの数字は残したが、全体的に期待外れの出来となった。
2010-11シーズンは2010年8月6日に長年悩まされていた左膝半月板の手術をおこなったことでシーズン前半戦を欠場し、2011年1月3日のヘタフェCF戦が初のベンチ入りとなった。その復帰戦で途中出場し、ゴールを決めるが、その後は度重なる怪我もあって本来のコンディションを取り戻せず、攻撃的MFのポジションはメスト・エジルに奪われていた。4月23日のバレンシアCF戦では2ゴール2アシストの大活躍を見せるなど終盤戦になって復調の兆しを見せたが、14試合7ゴール6アシストとキャリアワーストと言えるシーズンとなった。
2011-12シーズンもやはり相次ぐ負傷に悩まされて持続した活躍ができずにいた。ジョゼ・モウリーニョ監督はエースであるクリスティアーノ・ロナウドとの相性が良いエジルを優先的に起用し、スタメンから外れることは珍しいことではなくなっていた。この年、チームは4シーズンぶりのリーガ優勝を果たすが、カカの存在は希薄なものとなり、サポーターやメディアからも放出すべきという意見が多数派を占めるようになっていた。
2012-13シーズンも悪い流れは変わらず、たびたび移籍願望を口にするようになる。2012年12月4日のCLグループステージ、アヤックス・アムステルダム戦でゴールを決め、CL通算ゴールが28となりブラジル人最多得点者となる。冬の移籍マーケットではミランへの復帰が現実味を帯びるが、最終的に残留を決意。しかし、負傷によるコンディション不良に加え、モウリーニョ監督からの信頼を得られなかったことで19試合3得点という散々な成績に終わり、クラブが新戦力を補強したこともあって夏に移籍を志願する。
ミラン
2013年9月12日、古巣であるACミランへの復帰が発表される。自身は大幅な減俸を受け入れ、2年契約での再加入となった。ところが、復帰後初の公式戦となった試合で左内転筋断裂によって早速戦線を離脱。カカはこのとき、回復するまで給与を受け取らないことを表明する。1か月ほどの離脱から復帰すると、10月30日のラツィオ戦で復帰後初ゴールを記録。しかし凋落傾向にあったミランにおいてカカ自身もかつてのような輝きをもはや放つことができず、2014年1月14日のアタランタ戦でミランでの100ゴール目を記録するが、30試合7ゴールに終わる。シーズン終了後、欧州カップ戦の出場権を逃したため、6月30日に契約解除オプションを行使して退団。欧州でのキャリアを終えることになる。
サンパウロ
2014年7月1日、2015年シーズンよりアメリカ・MLSに新設されるオーランド・シティSCへ加入することと、2014年の残り半年間の期間は古巣であるサンパウロFCにレンタル移籍することが発表される。7月27日、カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAのゴイアス戦で11年ぶりに母国ブラジルでプレーし、先制ゴールを決める。19試合2得点という成績で終え、新天地へと旅立つのだった。
オーランド・シティ
2015年1月に予定通りオーランド・シティに合流し、アメリカでのキャリアをスタートさせる。創立1年目のチームの初代キャプテンに任命され、MLSでのデビュー戦となった3月18日のニューヨーク・シティFC戦ではFKからゴールを決め、アメリカでの初ゴールを記録。5月1日、前年度王者ロサンゼルス・ギャラクシーとの試合では1ゴール1アシストの活躍で勝利に貢献。7月29日のMLSオールスターではトッテナム・ホットスパーを相手に1ゴール1アシストを記録し、MVPに選出。若いチームをベテランとして牽引し、28試合9ゴールと奮闘したが、チームはプレーオフ進出を逃す。
2016年シーズンは負傷のため開幕から3試合を欠場。シーズン初出場となった4月3日のポートランド・ティンバーズ戦では1ゴール2アシストを記録し、勝利に貢献。シーズン2年目もチームの中心として活躍し、24試合9ゴール10アシストと奮闘しながらも、この年もプレーオフには進出できなかった。
2017シーズンのMLS開幕戦となったニューヨーク・シティ戦では開始から数分後に左足ハムストリングの肉離れによってピッチを後にし、2か月近く離脱。3年連続でMLSオールスターに出場し、6ゴール5アシストという成績を残したが、チームは3年連続で低迷。年俸がチーム最高給であったことからクラブ側は来シーズン以降の契約延長を提示せず、2017年10月11日にクラブ公式サイトにてシーズン終了後の退団が発表される。そして、12月17日に現役引退を表明。
ブラジル代表
2001年6月、アルゼンチンで開催されたFIFAワールドユース選手権2001にU-20ブラジル代表として出場。ラウンド16のオーストリア戦で大会初ゴールを記録するが、準々決勝でガーナに敗れている。
サンパウロFCでの活躍がルイス・フェリペ・スコラーリ監督の目にとまり、2002年1月にブラジル代表に初めて招集される。1月31日のボリビアとの親善試合に出場し、19歳にしてフル代表デビューを飾る。3月7日のアイスランド戦では代表初ゴールを決める。そのまま代表に呼ばれ続け、2002年6月に日本と韓国で開催された2002 FIFAワールドカップのメンバーに最年少で選出される。しかし、このときのブラジルはロナウド、リバウド、ロナウジーニョの「3R」が絶好調だったことから出場したのはグループリーグ第3戦のコスタリカ戦の25分間のみとなった。それでも20歳にしてワールドカップ優勝メンバーとなる。
2003年7月、CONCACAFゴールドカップに招待されたU-23ブラジル代表のキャプテンを務める。準々決勝のコロンビア戦で2ゴールを決め、準決勝のアメリカ戦では先制ゴールを決めるなど通算3ゴールを記録。決勝のメキシコ戦で敗れたものの、準優勝に貢献している。
その後はACミランでの躍進もあって代表でも中心選手へと成長し、2005年6月にはドイツで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2005に出場。全5試合にスタメンとして出場し、決勝のアルゼンチン戦ではチームの2点目を決め、この大会でMVPとなったロナウジーニョの活躍と比べれば目立たなかったものの、ブラジルの優勝に貢献。
2006年6月、ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップに出場。期待の若手枠だった前回と違い、今回はロナウジーニョ、ロナウド、アドリアーノと共にカルテット・マジコ(「魔法の4人」)の一角として大会の主役候補に挙げられていた。グループリーグ初戦のクロアチア戦ではワールドカップ初ゴールとなる決勝ゴールを決める。チームは上手く機能せず、個々の選手がバラバラに活躍するのみだったが、それでもラウンド16までは勝ち上がっていた。しかし、準々決勝ではフランスの堅守に自慢の攻撃陣が封じられ、敗退。全試合にスタメンで出場し、まとまりを欠いたチームで奮闘していたが、不完全燃焼の結果となった。
ドゥンガ監督体制下のセレソンではロナウジーニョが代表から遠ざかるようになったことで10番をつけるようになる。2010 FIFAワールドカップ南米予選では、2007年3月17日のエクアドル戦では代表では3年ぶりとなる1試合2ゴールを記録するなど、5ゴールを記録する。2009年6月に南アフリカで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2009では、初戦のエジプト戦で2ゴールを決めるなど、10番にふさわしい高いパフォーマンスで攻撃陣を牽引。大会通算2ゴール2アシストでブラジルの連覇に貢献し、MVPに該当するゴールデンボールを受賞。
2010年6月、南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップに出場。スターシステムを排除したドゥンガ監督から攻撃の中心として期待を寄せられていたが、レアル・マドリードで負った脚の故障を抱え、万全のコンディションではなかった。グループリーグ最初の2試合で連続して警告を受け、消化試合となったポルトガル戦は出場停止となる。復帰したラウンド16のチリ戦では得意のドリブル突破からルイス・ファビアーノのゴールをアシスト。しかし準々決勝のオランダ戦ではフェリペ・メロの退場によって流れが変わり、2大会連続でベスト8で敗退。
南アフリカワールドカップ以降は度重なる怪我や不調、さらにはネイマールの台頭によって代表に招集されなくなり、招集されてもプレータイムは保証されず、継続して呼ばれなくなっていた。2012年10月11日のイラク戦で2年ぶりに代表の試合に出場し、1ゴール1アシストを記録し、10月16日の日本戦でもゴールを決める。しかし、レアル・マドリードで出場機会を失っていたこともあり、自国開催となった2014年ワールドカップのメンバーに入れなかった。
オーランド・シティに移籍した2015年に代表復帰を果たし、2016年のコパ・アメリカ・センテリオの追加メンバーとして招集されるが、自身も負傷したことで大会には出場できず、これが最後の招集となった。
個人成績
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2001 | サンパウロFC | カンピオナート・セリエA | 27 | 12 | |
| 2002 | サンパウロFC | カンピオナート・セリエA | 22 | 9 | |
| 2003 | サンパウロFC | カンピオナート・セリエA | 10 | 2 | |
| 2003-04 | ACミラン | セリエA | 30 | 10 | |
| 2004-05 | ACミラン | セリエA | 36 | 7 | |
| 2005-06 | ACミラン | セリエA | 35 | 14 | |
| 2006-07 | ACミラン | セリエA | 31 | 8 | |
| 2007-08 | ACミラン | セリエA | 30 | 15 | |
| 2008-09 | ACミラン | セリエA | 31 | 16 | |
| 2009-10 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 25 | 8 | |
| 2010-11 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 14 | 7 | |
| 2011-12 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 27 | 5 | |
| 2012-13 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 19 | 3 | |
| 2013-14 | ACミラン | セリエA | 30 | 7 | |
| 2015 | オーランド・シティ | MLS | 28 | 9 | |
| 2016 | オーランド・シティ | MLS | 24 | 9 | |
| 2017 | オーランド・シティ | MLS | 23 | 6 |
個人タイトル
- バロンドール(2007年)
- FIFA最優秀選手賞(2007年)
- カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA MVP(2002年)
- セリエA最優秀選手(2003-04)
- セリエA最優秀外国人:2回(2003-04、2005-06)
- FIFAクラブワールドカップMVP(2007年)
- FIFAコンフェデレーションズカップ ゴールデンボール(2009年)
引退後
2018年よりスポーツマネジメント会社「ベスト・オブ・ユー・スポーツ」に所属、選手の代理人業務を開始。また、大学でスポーツマネジメントを履修している。
2022年5月、ブラジルサッカー連盟のA級ライセンスを取得。
プレースタイル
ポジションは攻撃的MF。全盛期だったACミラン時代は創造的なパス、スピード、決定力、中盤からのドリブルを武器とし、世界最高の選手の一人とされ、中央に陣取ってパスを散らしゲームメイクをするというタイプではなく、天才的な身のこなしから攻撃のギアを上げ、よりゴールに近い場所へボールを運び決定的なチャンスメイクをするタイプだった。
最大の武器は代名詞ともいえる圧倒的なスピードを活かした高速ドリブル。細かいタッチを駆使するわけではなく、シザースなどのフェイントもほとんど無く、無駄がない大きなストライドを活かし、一気に相手陣内へと侵入してしていく。特に、長い距離を走るカウンターアタックの場面では、相手ディフェンダーを置き去りにする推進力を発揮していた。
走りはじめから、トップスピードになるまでの速さが群を抜いており、そこから2段も3段も一気に上げられる天性のスピードによってありえない距離をありえない速さで駆け抜ける。対峙するDFも、とんでもないスピードで向かってくるカカにリズムが全く合わず、フェイントを使われるまでもなく置き去りにされてしまう。
高速ドリブルと複合できる天才的な技術も恐ろしく精度が高い。迂闊に飛び込めば、キレのいいインサイド・アウトサイドのカットで腰砕けにされるし、巧みにコース取りできる予測能力とフィジカルの柔軟性もあったからドリブルの距離を出せる。さらには高精度なキックのコントロールを持ち、特にインサイドキックの技術は絶対的だった。
MFながらストライカー並みの高い決定力も有しており、ドリブルで相手ゴール前に侵入してからの冷静なフィニッシュが特徴的だった。弧を描きDFの肩口を抜く様なシュート、直線で射抜くグラウンダーのシュートなど、自分なりの得意なゴールの形を持っているのも強みだった。インサイドの高速シュートで、エリア外からでも十分にゴールを陥れることもでき、ゴール前のわずかなスペースを活かす嗅覚も持ち合わせ、ワンタッチでのシュートも得意としていた。
アシストの面でも優れており、視野が広く、周囲の選手の動きを見極めながら的確なパスを供給することができた。特に、相手のディフェンスラインの裏を狙ったスルーパスは絶妙で、味方のストライカーに多くの決定機を提供していた。さらに、状況に応じてトップ下やセカンドトップとしてもプレーできる柔軟性を持っており、チームの戦術に適応し、求められる役割をこなすことができた。
トッププレイヤーにしては守備もさぼらないため、全盛期は大きな弱点は見られなかったが、レアル・マドリードに移籍して以降は慢性的な膝と股関節の怪我によってプレー時間が制限され、なかなか万全のパフォーマンスを発揮できなくなり、年齢的な衰えもあって得意としていたドリブルのキレが失われた。
人物・エピソード
- 2005年12月、長年の遠距離恋愛を経て幼馴染の5つ下のブラジル人女性と結婚。長男と長女を授かり、完璧とも言えるカップルであったが、2014年11月に離婚。2019年11月に13歳年下のブラジル人モデルと再婚。2020年に女の子が生まれている。
- 実弟のロドリゴも2005年にACミランへ入団、ジゴン(Digão)の名で選手登録されている。
- 18歳のときの事故の影響で近視になったカカは、試合中はコンタクトレンズを使用し、普段は度の強いメガネをしていたが、2007年6月に極秘でレーシック手術を受けた。
- ミラン加入の際の移籍金の内、カカ自身の取り分をお世話になったお礼にとサンパウロFCへ渡した。これを知ったミラン経営陣は感激してもう一度カカの取り分を支払った。
- 元日本代表の呂比須ワグナーと仲がよく、オフの時はゴルフに行く。
- ロールモデルとしていたのは、ブラジル代表やサンパウロFC、パリ・サンジェルマンなどでプレーしたライー。
カカなんて大したことはない
カカなんて大したことはない。
お父さんはエンジニアでお母さんは大学教授で
幼い頃から名門サンパウロでプレーし
小学生の頃サンパウロジュニアで日本の山形に短期滞在して
その時お世話になった 老夫婦の恩を忘れず、ずっと手紙でやり取りし
02年ワールドカップで日本に来たとき、ブラジル代表戦のチケットを老夫婦に送り
当時貰ったこいのぼりのおもちゃや 5000円札を今でも大切に持っていて
18歳の頃、プールで飛び込みをした時に脊髄を損傷し重症を追うも
事故から4ヶ月後にはサンパウロFCのトップチームデビューを果たして
イタリアの名門ACミランに移籍し、富と栄誉を手にして
でも、その移籍金をお世話になったお礼にと、自分の取り分もサンパウロFCへ全額寄付して、
07年CWCのMVP賞金もACミランに寄付をして、
ACミランには忠誠を誓い、どんな巨額の移籍オファーが来ても残留し続け、
昔から付き合ってる幼馴染は クリスチャン・ディオール・ブラジルの偉いさんのご令嬢で、
すんごい美人で料理が上手なのに、メディアにしゃしゃり出たりせず、
ミラノの大学に在学中で、結婚の約束をしているのに
正式に結婚するまではセックスはしないと誓い、それを頑なに守った。そんなドコにでもいるプレーヤー、それがカカ。
関連動画
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関連項目
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- なし
兄弟記事
- アリエン・ロッベン
- アレッサンドロ・デル・ピエロ
- アンドリー・シェフチェンコ
- アンドレア・ピルロ
- アンドレス・イニエスタ
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- 伊東純也
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- 井原正巳
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- ジーコ
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- ダビド・シルバ
- ダビド・ビジャ
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- パオロ・マルディーニ
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- フランク・ランパード
- フランク・リベリ
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- フランツ・ベッケンバウアー
- 古橋亨梧
- ペペ(ポルトガルのサッカー選手)
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