本田圭佑とは、
1.日本のサッカー選手(ほんだ けいすけ、Keisuke Honda、Кэйсукэ Хонда、1986年6月13日 - )
2.宮城県出身のプロ野球選手(投手)→詳細は本田圭佑(野球)を参照。
本稿では1について解説する。
概要
大阪府摂津市出身。182cm74kg。ポジションはFWもしくはMF。利き足は左足。元サッカー日本代表。
「ビッグマウス」と「大事な場面での決定力」で2010年代のサッカー界の顔となった選手であり、その独特の言動で何かと話題になる人物である。
FIFAワールドカップ3大会連続でゴールを決めた唯一の日本人であり、日本人選手としては最多となる通算4得点を記録。ワールドカップのマン・オブ・ザ・マッチも日本人選手としては最多の4回受賞。特に南アフリカでおこなわれた2010 FIFAワールドカップでは2ゴールを記録し、日本を2大会ぶりのベスト16へと導き、一躍スター選手の仲間入りを果たす。
クラブチームでは、ACミランで10番を背負ったことがあり、アジア・欧州・北中米・オセアニア・南米の10ヶ国でプレーした経歴を持っている。また、2018年には現役選手でありながらカンボジア代表の実質監督に就任。国内外を問わず複数のクラブのオーナーも務めている。
現役選手ながら選手以外の活動も精力的に行い、2012年から自身がプロデュースするサッカースクール・SOLTILO FAMILIAを日本全国で開校。2015年からは複数のプロサッカークラブの実質的なオーナーを務めるなど経営者としての顔も持つ。
自分の考えをはっきりと伝えるタイプであり、何かとビッグマウスも目立つことから彼を支持するファンが多い反面、アンチも多く、何かと発言が物議を醸してしまう。良くも悪くも注目を集めてしまう人物である。
経歴
生い立ち
1986年6月13日、大阪府摂津市に次男として生まれる。恵まれた家庭環境とはいえず、父親は家庭を顧みずに事業を起こすが長続きせずに辞めてしまうことを繰り返し、母親はそんな不安定な生活に心労を重ねていた。
小学校2年生の春に両親は離婚。そのため、兄と共に祖父母によって育てられることとなった。この時期に兄が所属していた摂津FCに入団し、サッカーを始めることとなった。祖父母は圭佑たち兄弟を育てるために朝から晩まで必死に働かなければならない状況にあり、自宅に帰っても誰もいない寂しさを紛らわせてくれたのがサッカーだった。現在にも通ずる負けん気の強さや見えっ張りなところ、あえて大言を吐いて夢を実現する人間性も、この頃に養われたという。
中学生の頃にガンバ大阪ジュニアユースに所属。家長昭博、安田理大、東口順昭といった後の日本代表経験者が所属していた。地元では注目される選手となっていた本田だが、天才と称されていた家長の実力に衝撃を受け、家長に追いつくために必死に喰らいついていた。しかし、この当時はスタミナとスピードが不足していたことがネックとなり、ユースへの昇格を果たすことができなかった。
挫折を経験した本田は親元を離れ石川県の星稜高校へ進学。1年生からレギュラーを掴み頭角を現すと、高円宮杯で準優勝、3年生のときにはキャプテンとして第83回全国高校サッカー選手権でベスト4の成績を残す。超高校級のMFとしてJリーグ複数のチームからオファーを受けており、2004年には強化指定選手として名古屋グランパスエイトの練習に参加。7月24日のナビスコカップ、ジュビロ磐田戦で公式戦出場を果たしている。
名古屋グランパス
高校卒業後の2005年名古屋グランパスエイトと正式にプロ契約を結び、プロとしてのキャリアをスタート。背番号は「24」。3月5日のJ1開幕戦のジェフユナイテッド千葉戦で、クラブ史上4人目となる高卒ルーキーの開幕スタメンを飾り、この試合でアシストを記録。4月28日の第8節東京ヴェルディ1969戦では、角度のない位置からの左足シュートでプロ初ゴールを決める。チームは不振に陥り、残留争いを経験するが、リーグ戦31試合2得点4アシストを記録。
2年目となる2006年シーズンにレギュラーに定着するようになり、セフ・フェルホーセン監督の意向によって左サイドハーフ、左サイドバック、左ウイングバックといった様々なポジションで起用される。3年目の2007年には8アシストを記録し、左足のキックが注目されるなど存在感を見せていた。
VVVフェンロ
2008年1月16日オランダ・エールディヴィジのVVVフェンロへ移籍。この頃から現在のトレードマークとなっている金髪のショートヘアにイメチェンしている。オランダ語で応じた入団会見をおこなった当日である1月20日のPSV戦で早速デビューを飾る。3月15日の第27節フェイエノールト戦ではFKからの直接ゴールで初ゴールを決めている。レギュラーを掴んだものの、チームは大きく低迷。2007-2008シーズンにVVVはエールステ・ディヴィジ(2部)に降格するが、翌シーズンもそのままVVVに残留した。
2部で迎えた2008-2009シーズンから背番号を「10」に変更。得点の意識を高めた本田は開幕から首位を独走するチームの主力として活躍。シーズン途中からキャプテンを任されるなど絶対的な存在として君臨し、チームをエールステ・ディヴィジ(2部)優勝へと導き、1年での1部復帰に成功する。キャリアハイとなる16得点13アシストという成績を残し、リーグMVPにも選ばれた。昇格が決まった試合の直後にピッチに乱入したファンから身ぐるみを剥がされパンツ一丁にされ、あわやパンツまで奪われそうになる。
2009-2010シーズンはオランダのビッグクラブへの移籍が予想されたが、高い移籍金がネックとなり移籍が成立せず、VVV所属のままシーズンを迎える。
ここで本田は開幕から3戦で4得点2アシストの大活躍を見せるなど、18試合で6得点を挙げ、復帰1年目のチームを中位に押し上げた。VVVでは1部で32試合8得点、2部で36試合16得点を記録した。
CSKAモスクワ
VVVでの活躍もあって、この年の冬の移籍市場でロシアの強豪・CSKAモスクワへの移籍(4年契約)を果たす。背番号は「7」。CSKAモスクワはUEFAチャンピオンズリーグにもたびたび出場するほどの実力を持ち、事実上のステップアップを果たす。
2010年2月24日UEFAチャンピオンズリーグ(CL)ラウンド16 1st ledセビージャ戦でCLデビューを果たすと、3月16日の2nd legでは後半10分におよそ30mほどの位置からFKを直接ゴールに決める。このゴールが決勝ゴールとなってCSKAはクラブ史上初のベスト8進出を果たし、活躍が認められた本田はこの試合のMOMに選ばれ、世界中のメディアからの注目を集める。2010-11シーズンのリーグ開幕戦となったアルカム戦では、試合終了間際に決勝ゴールを決め、劇的なリーグ戦デビューを果たす。トップ下に若いアラン・ジャゴエフがいたためボランチで起用されることが多かったが、そつなくこなしてチームに貢献。2011年5月22日のロシア・カップ決勝のアラニア戦では決勝点をアシストし、ロシアでの初タイトルを獲得する。
2011-2012シーズンは、2列目の右サイドで起用されることが多くなったため得点数が伸びるが、2011年8月28日のスパルタク・モスクワ戦で右膝半月板損傷によって戦線を離脱。一度は復帰したものの再発させてしまい、2012年3月まで復帰に時間を要することになる。また、この年の1月にイタリア・セリエAのラツィオへの移籍が確実視されるが、CSKAが移籍金額に不満を持ってオファーを断ったため破断となる。
2012-2013シーズンは本職であるトップ下で起用され、前半戦の18試合で前年と同じ7ゴールを記録するが、今度は2013年2月に左足首を負傷し、またしても長期の戦線離脱を強いられる。4月21日のスパルタク・モスクワ戦で復帰すると、チームは5月に6シーズンぶりとなるリーグ優勝を決める。自身にとっては初めてとなるトップリーグでの優勝経験となった。また、ロシア・カップ決勝にも出場しており、国内2冠目となるタイトル獲得に貢献する。
また、毎シーズンのように移籍報道も飛び出すが、前述のように4年契約を結んでいたことから高額な移籍金がネックとなって移籍が破談になったと報じられることが恒例行事となりつつあった。
2013-14シーズンもロシア脱出ならず、開幕からCSKAでプレーすることになる。それでもロシア・スーパーカップのゼニト戦で2ゴールを決め優勝に貢献すれば、CLのバイエルン・ミュンヘン戦、ブルゼニ戦で連続して1ゴール1アシストの活躍を見せ、好調を維持していた。
そして2013年12月でCSKAとの契約が終了し、ようやくロシアからの脱出に成功する。
ミラン
2013年12月11日心の中のリトル・ホンダの声を聞いたことにより、イタリア・セリエAの名門ACミランへの移籍が決定。移籍金0円での移籍となり、3年半契約で背番号は自ら希望した「10」を付けることに。
2014年1月12日セリエA第19節のサッスオーロ戦で途中出場し、セリエAでのデビューを果たす。しかし、その翌日マッシミリアーノ・アッレグリ監督が解任となり、後任のクラレンス・セードルフ監督から右サイドハーフで起用されたことで適応に苦しみ、4月7日第32節ジェノア戦での初ゴールのみで終了する。
2014-2015シーズン開幕戦のラツィオ戦では、3トップの右ウイングで起用され、先制ゴールを決める。そこからゴールを重ね、一時は得点ランクの上位につける活躍を見せる。しかし、徐々にチームの不調に引っ張られる形で輝きを失うようになり、周囲からの厳しい声を浴びせられるようになる。11月23日のミラノ・ダービーでインテルの長友佑都との日本人対決が実現するが、本田を高く評価していたフィリッポ・インザーギ監督が途中で解任されたこともあり、徐々にスタメンから外れることも増え、クラブのレジェンドであるアレッサンドロ・コスタクルタやパオロ・マルディーニからも酷評されてしまう。結局2014年11月以降の得点数はわずか1に終わり、不完全燃焼のシーズンとなった。
2015年6月9日自身のマネージメント会社がオーストリア3部リーグのSVホルンの経営に参画することを発表し、話題となる。ちなみにクラブを買収したわけではなく、パートナーシップを結んだという話である。
2015-2016シーズンの前半戦は控え組という位置づけとなり、前年と比べて出場機会が減っていた。2014年10月14日2試合連続で出場機会が無かったナポリ戦の後に、メディアに対してチーム批判と受け取られかねない発言をしてしまい、問題視される。それでも、シーズン後半戦に入ってから右ウイングの位置でレギュラーに返り咲き、2016年1月30日のインテル戦では決勝ゴールをアシストする。シニサ・ミハイロビッチ監督から与えられた役割は、守備の際は自陣深い位置まで戻って守備をこなし、攻撃時には前に出ていく上下のアップダウンを献身的におこなう役割であり、本田はこの役割を忠実にこなしチームに貢献していた。しかし、直接ゴールに絡む機会が少なかったため、10番の役割として物足りなく感じたメディアやサポーターからの批判はなおも続き、低迷するミランの戦犯にあげるものすらいた。
2016-2017シーズンに就任したヴィンチェンツォ・モンテッラ監督は、右ウイングの位置に若くてスピードのあるスソやジェラール・デウロフェウを積極的に起用したため、本田は構想外になってしまう。冬に移籍するかと見られたが、チーム残留を決断したものの状況に変化は無かった。2017年5月31日ホーム最終戦となるボローニャ戦で、後半13分から出場すると、シーズン初ゴールとなる直接FKを決める。このゴールはミランの翌シーズンのヨーロッパリーグ出場権獲得を呼び込む勝利に繋がった。試合後、本田は自身の公式ツイッター開設と同時に退団を表明。最終節のカリアリ戦では、キャプテンマークを巻いてフル出場し、ミランでの挑戦を終える。
世界放浪時代
2017年7月14日メキシコ・リーガMXの強豪CFパチューカと1年契約を結ぶ。背番号は異例の「02」。右ふくらはぎの負傷で開幕から出遅れるが、8月22日のベラスクルス戦で初出場を果たし、初ゴールを決める活躍を見せる。11月19日のコパMX準々決勝ティフアナ戦では、ハーフウェイライン前から単独で4人を抜いてゴールを決め、衝撃を与える。12月にはFIFA クラブワールドカップに初出場。年明けの後期リーグからはさらにゴールとアシストを増やしていき、29試合出場10ゴール7アシストという成績を残す。
この頃からビジネスの世界での動きも目立つようになり、2018年7月18日ウィル・スミスと共同で1億規模のベンチャー・ファンドを設立している。
2018年8月6日オーストラリア・Aリーグのメルボルン・ビクトリーFCへの加入が決定。背番号は日本代表と同じ「4」。開幕戦のメルボルン・シティとのタービーマッチでは、移籍後初出場ながらキャプテンマークを巻いて出場し、初ゴールを記録。開幕からの7試合で4ゴール3アシストの活躍を見せ、10月と11月の月間最優秀選手に選ばれる。12月に右太ももを負傷し、およそ2カ月戦線を離脱するも、2019年3月にAFCチャンピオンズリーグに初出場。第2節でのサンフレッチェ広島戦で凱旋帰国を果たし、この試合でゴールを決める。チームはリーグ3位でファイナルシリーズに進出し、準決勝まで戦ったチームを引っ張るが、5月23日に退団を発表する。
メルボルン・ビクトリーを退団して以降は移籍先が見つからず、無所属の状態がしばらく続くが、10月31日からCSKAモスクワ時代の恩師であるレオナルド・スルツキが監督を務めるエールディヴィジのフィテッセの練習に参加。11月6日にフィテッセと正式契約を結び、10年ぶりにオランダに復帰する。しかし、チームの不振の責任を取ってスルツキが辞任すると、12月23日に退団を表明。わずか1カ月の在籍となる。
2020年1月31日ブラジル・カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAのボタフォゴFRへの移籍が決定する。背番号は「4」。3月15日リオデジャネイロ州選手権第3節バング―戦でブラジルでのデビューを果たすと、PKで先制ゴールを決める。このゴールは自身のクラブでの通算100ゴール目となった。新型コロナウィルス感染拡大による中断後にはキャプテンを任されるなど、チームからの信頼を得る。しかし、チームの成績は降格圏に沈むほど低迷し、相次ぐ監督交代など混迷を極める。自身も周囲を納得させるだけのパフォーマンスを見せられず、次第に非難の声が強まるようになる。12月に入ると欧州への復帰話が浮上するようになり、12月30日に自身のツイッターで退団の意思を表明。結果的に期待を裏切ったうえにシーズン終了を待たずに退団することでサポーターやメディアから批判が相次ぐ。さらに、コロナ渦の中、盛大な送別会をマスクをせずにおこなった動画が流出し、ブラジル中でさらなる厳しい批判を浴びる。1月29日付けで正式にボタフォゴを退団することとなったが、ブラジルでの挑戦は後味の悪いものとなった。
2021年2月4日自身がCEOを務める音声サービス「NowVoice」においてポルトガル・プリメイラ・リーガのポルティモネンセSCへ半年間の契約で移籍したことを明らかにする。しかし、2月1日で移籍市場は閉っており、2020年6月30日時点で無所属でなければ追加登録は認められないというリーグ規定があるために選手登録が認められず、契約は破談となる。
2021年3月15日アゼルバイジャン・プレミアリーグのネフチ・バクーへの移籍が発表される。契約は同年5月末までで背番号は「4」。4月4日の第21節スムガイト戦に後半から出場し、新天地でのデビューを果たす。5月3日の第25節ケシェラ戦で移籍後初ゴールを決め、これで8か国のトップリーグでゴールを記録したことになる。第26節のサバイル戦でも2試合連続ゴールを決め、ネフチは最終節で逆転し8シーズンぶりのリーグ優勝を達成。6月16日、契約満了により退団が発表される。
2021年9月14日、リトアニア・Aリーガのスードゥヴァ・マリヤンポレへの移籍が自身の公式YouTubeチャンネルで発表される。背番号は「3」。9月26日のバンガ戦でデビューすると、早速初ゴールを決め、9か国のトップリーグで得点を記録したことになる。しかし、以降は目立った活躍は見られず、11月末をもって契約満了により退団。地元メディアからは「最も失望した選手」の第1位に選ばれる。
その後は再び無所属の時期が続き、2019年に開設した自身のYouTubeチャンネルやツイッターなどのSNSでの活動が中心となる。2022年2月に勃発したロシアによるウクライナ侵攻の際の発言が物議を醸す。
2022年10月には膝の手術を受け、実戦復帰に向けてリハビリと練習を続けていた。
2024年7月29日、ブータン・プレミアリーグのパロFCと1試合限定で選手契約を交わしたことが発表される。背番号は「4」。8月8日の国内リーグチランFC戦で後半開始から途中出場し、3年ぶりの実戦を経験。8月13日、AFCチャレンジリーグ・プレーオフのチャーチ・ボーイズ・ユナイテッド戦にキャプテンマークを巻いてフル出場、ボランチとして攻守で奮闘しチームの勝利に貢献、クラブを史上初のAFC国際大会本戦出場に導く。
10月4日にはパロFCとまたも1試合限定で再契約を交わすと、20日のリーグ最終戦ティンフーシティFC戦にキャプテンとしてフル出場。PKとヘディングによる2ゴールを決め、自身10ヶ国目の得点を記録。
日本代表
国際Aマッチでは、2008年の代表デビューから2018年のロシア・ワールドカップまで、98試合出場しており、37得点挙げている。
高校3年生の頃の2004年、石川県選抜として左サイドバックとしてプレーしていた際、正確な左足のキックが視察に来ていた大熊清の目に留まり、U-19日本代表に選ばれる。その後、2005年6月にオランダで開催された2005 FIFAワールドユース選手権のメンバーにも選出。グループリーグ初戦のオランダ戦で、負傷していた梶山陽平に代わってボランチでスタメンとして出場。しかし、守備に忙殺されて何もできず、後半19分に交代させられ、以降出番が回ってくることは無かった。
2006年11月に初めて日本代表のメンバーに選出されるも試合に出場することは無く、2年後の2008年6月22日南アフリカワールドカップアジア3次予選のバーレーン戦でスタメンとして起用され、フル代表デビューを果たす。
2007年は、U-22日本代表としての活動が中心となり、北京オリンピックアジア予選に主力として出場。5月16日のアジア2次予選アウェイの香港戦では、あり得ない起動の無回転FKによるゴールを決め、後に語り草となっている。最終予選では左サイドハーフ、左ウイングバック、左サイドバックと様々なポジションで起用されながら5試合全てにフル出場し、オリンピック出場権をもたらす。
2008年8月に開催された北京オリンピックに出場するU-23日本代表に選ばれ、後に長く日本代表の主軸を担ったメンバーと共にプレー。しかし、3試合全てにフル出場したものの、結果はグループリーグ3戦全敗に終わる。グループステージ敗退決定後の第3戦において、反町康治監督の指示に造反していたとインタビュー時に発言し、メディアで物議をかもした。
日本代表では、2009年5月27日のキリンカップ、チリ戦で代表初ゴールを記録していたものの、当時代表の中心だった中村俊輔の控えという位置づけで、南アフリカ大会アジア最終予選にも2試合に途中出場したのみとなっていた。ワールドカップ出場決定後のテストマッチで不甲斐ない戦いを続けてきたことから、オランダで活躍していた本田を主力に起用すべきという声も高まっていた。
2010 FIFAワールドカップ・南アフリカ大会にも代表に選出。大会直前の親善試合や練習試合においてチームとして全く結果を残せなかった岡田武史監督は、開幕戦ギリギリになって本田をセンターフォワードとして起用する方針を固める。未経験のポジションでありながらも本田は期待に応え、6月14日に行われたグループリーグ初戦のカメルーン戦では、前半39分に決勝ゴールとなる左足でのシュートを決め、期待値が薄くなっていた日本代表に対する国内の評価を一変させる。6月25日に行われた3戦目のデンマーク戦でも、前半17分に直接FKによるゴールで先制ゴールをもたらし、後半42分には岡崎慎司のダメ押しとなる3点目をアシスト。1得点1アシストの大活躍を見せ、日本代表の決勝トーナメント進出の原動力となった。ベスト16のパラグアイ戦ではPK戦の末に惜しくも敗れたものの、大会4試合全てにフル出場し、救世主となる活躍を見せたことから以後日本代表において絶対的な存在となり、その言動に対する注目度も飛躍的に高くなる。また、敗れたパラグアイ戦を含む3試合でMOMに選出。一気にスターダムへとのし上がり、以降は日本代表の主役としての地位を確立させる。
2010 FIFAワールドカップでの活躍は海外でも評価が高く、ロシアのメディアでは「ホンダがチームを疾走させた。」「最高のプレイヤ-」と伝え、イギリスのBBC放送の実況は、本田のフリーキックを「まるでクリスティアーノ・ロナウドのようだ」と称賛。司会の元イングランド代表キャプテンのゲーリー・リネカーは、「彼の契約金ははねあがった」と手放しで絶賛した。
またその活躍から2010 FIFAワールドカップ終了後にはバレンシア、アトレティコ・マドリー、マンチェスター・シティ、ACミランなどのヨーロッパの強豪クラブに移籍するのではないかと噂されていたが、前述の通り高額な移籍金が障害となり実現はしなかった。
アルベルト・ザッケローニ監督が就任してからの日本代表は、北京オリンピック世代の選手がチームの中心を担い、本田はトップ下が定位置となり、高いキープ力を活かしてタメを作ることで周囲に時間を与える攻撃の核となっていた。2011年1月にカタールで開催されたAFCアジアカップ2011にも出場。この頃から代表での背番号は「4」で定着する。グループリーグ2戦目のシリア戦では、決勝ゴールとなるPKを決める。大会での自身のゴールはこの1点のみだったものの、準決勝の韓国戦では2ゴールに絡む活躍を見せるなど、大会で日本が挙げた9得点中6得点に絡む活躍を見せ、日本のアジアカップ優勝の原動力となり、大会の最優秀選手に選ばれる。
2011年の後半は、CSKAモスクワで負った右膝半月板損傷の影響で長期欠場が続き、日本代表からもおよそ9カ月の間遠ざかり、ブラジルワールドカップアジア3次予選は全試合欠場となる。2012年5月23日のアゼルバイジャン戦で代表に復帰すると、6月3日のアジア最終予選オマーン戦で先制ゴールを決め、ヨルダン戦ではハットトリックを決める大活躍を見せる。2013年6月4日のオーストラリア戦では、試合終了間際に同点ゴールとなるPKを決め、ワールドカップ出場権獲得を決定させる。この大会のアジア最終予選ではチーム最多の5ゴールを記録し、チームの原動力となった。直後に開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2013にも3試合全てに出場し、第2戦のイタリア戦でゴールを決めるが、チームはグループリーグ3試合全敗に終わる。
2014 FIFAワールドカップ・ブラジル大会にも順当に選出。チームの絶対的なエースとしてワールドカップに臨み、グループリーグ初戦のコートジボワール戦では前半16分に先制ゴールを決める。しかし、後半に立て続けに失点を許し、痛い逆転負け。第3戦のコロンビア戦では、前半終了間際に岡崎の同点ゴールをアシストするが、後半にチームは3失点を喫し大敗。自身は1得点1アシストと奮闘したものの、史上最強の日本代表と称されたチームはグループリーグ敗退に終わった。
2015年1月にUAEで開催されたAFCアジアカップ2015には全試合にスタメンで出場。ミランで調子を落としていた時期ではあったが、グループリーグでは3試合連続でゴールを決める活躍を見せる。準々決勝のUAE戦では、柴崎岳の同点ゴールをアシストしたものの、PK戦では香川真司と共にPKを失敗してしまい、敗退。アジアカップ連覇の夢は潰えることとなる。
2015年6月からスタートしたロシアワールドカップアジア2次予選では、出場した5試合全てでゴールを決める活躍を見せ、2016年9月1日のアジア最終予選初戦のUAE戦でも先制ゴールを決め、出場したアジア予選7試合連続ゴールという記録を作る。しかし、チームはよもやの逆転負けを喫することとなる。その後、ミランで出場機会が激減したこともあり体のキレを失い、以後のアジア最終予選ではスタメンから外れることが多くなる。特定の選手を特別視しないヴァヒド・ハリルホジッチ監督は、流れを変えるプレイヤーとして起用はしていたものの、メディアやサポーターからは本田不要論が飛び交うようになる。2017年8月31日のワールドカップ出場権獲得が決まったオーストラリア戦でも香川、岡崎と共にスタメンから外れ、日本代表の王様としての地位はますます揺らいでしまう。
ワールドカップ出場権獲得後の強化試合では、8年ぶりに怪我でもないにもかかわらず日本代表に呼ばず、半年間代表に呼ばれなくなるなどワールドカップ出場メンバーからの落選が現実味を帯びてくる。しかし、2020年4月7日ハリルホジッチ監督が解任となる。香川や岡崎らと共にハリルホジッチから冷遇されていた本田は、クーデーターを起こし日本サッカー協会に働きかけたのではないかと疑惑の目を向けられる。ハリルホジッチのやり方に不満を持っていた選手は多かったともされ、このあたりの真相は定かではない。
後任として就任した西野朗監督によって、2018 FIFAワールドカップに出場する23人のメンバーに選出される。直前のテストマッチで結果を出せず、スタメンを香川や乾に譲ることとなったが3度目のワールドカップではスーパーサブとして流れを変える役割を与えられる。グループリーグ初戦のコロンビア戦では、1-1で迎えた後半25分から出場し、コーナーキックから大迫勇也の決勝ゴールをアシスト。第2戦のセネガル戦でも勝ち越しゴールを喰らった直後の後半27分から出場。後半33分に起死回生の同点ゴールを決め、日本人初となるワールドカップ3大会連続ゴールを記録。大会前では予想されなかった2大会ぶりのグループリーグ突破に貢献した本田の活躍に、不要論が多かったネットでは「本田さん、ごめんね」のワードが飛び交った。ベスト16のベルギー戦では、2点のリードを追いつかれた後半36分から出場するが、試合終了間際に蹴ったCKが逆転ゴールを浴びるカウンターのきっかけとなる。
大会後、日本代表からの引退を表明。一方で2020年の東京オリンピックにオーバーエイジ枠として出場することに意欲を見せていたが、結局メンバーに選ばれなかった。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2004 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 0 | 0 | |
2005 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 31 | 2 | |
2006 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 29 | 6 | |
2007 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 30 | 3 | |
2007-08 | VVVフェンロ | エールディヴィジ | 14 | 2 | |
2008-09 | VVVフェンロ | エールステ・ディヴィジ | 36 | 16 | |
2009-10 | VVVフェンロ | エールディヴィジ | 18 | 6 | |
2010 | CSKAモスクワ | ロシア・プレミアリーグ | 28 | 4 | |
2011-12 | CSKAモスクワ | ロシア・プレミアリーグ | 25 | 8 | |
2012-13 | CSKAモスクワ | ロシア・プレミアリーグ | 23 | 7 | |
2013-14 | CSKAモスクワ | ロシア・プレミアリーグ | 18 | 1 | |
ACミラン | セリエA | 14 | 1 | ||
2014-15 | ACミラン | セリエA | 29 | 6 | |
2015-16 | ACミラン | セリエA | 30 | 1 | |
2016-17 | ACミラン | セリエA | 8 | 1 | |
2017-18 | パチューカ | リーガMX | 29 | 10 | |
2018-19 | メルボルン・ビクトリー | Aリーグ | 18 | 7 | |
2019-20 | フィテッセ | エールディヴィジ | 4 | 0 | |
2020 | ボタフォゴ | ブラジレイロ・セリエA | 18 | 2 | |
2020-21 | ポルティモネンセ | プリメイラ・リーガ | 0 | 0 | |
ネフチ・バクー | アゼルバイジャン・プレミアリーグ | 7 | 2 | ||
2021-22 | スードゥヴァ | Aリーガ | 6 | 1 | |
2024 | パロFC | ブータン・プレミアリーグ | 2 | 2 |
個人タイトル
指導者としての経歴
2018年8月12日現役のプロサッカー選手を続けながら、カンボジア代表の実質的な監督を務めることを表明する。自身はプロサッカー監督のライセンスを持ち合わせていないため、登録上はフェリックス・ダルマスが監督となり、自身はGMという肩書で実質的には指揮を執る。2018年11月20日の東南アジアサッカー選手権のラオス戦で初勝利を挙げ、2019年6月11日にはパキスタン相手に勝利し、カタールワールドカップアジア2次予選進出を決めている。また、U-23代表の指揮も執っており、2019年の東南アジア競技大会で史上初のグループリーグ突破を果たし、過去最高となる4位という成績を残している。
2021年3月24日には、2023年の東南アジア競技大会まで契約が延長になったことが発表される。カタールワールドカップアジア2次予選では1分7敗でグループC最下位という成績に終わり、2次予選敗退となっている。
2022年12月に開催された東南アジアサッカー選手権のグループステージではフィリピンとブルネイに勝利、カンボジア代表初の1大会2勝を挙げたが、最終戦のタイに敗れ、グループステージ敗退となった。もっともグループステージ3位はカンボジア代表史上最高成績である。
大会後、五輪世代で臨む2023年5月の東南アジア競技大会をもってカンボジア代表のGMから退任することを発表。契約満了に伴う退任となった。
プレースタイル
高校生の頃から爆発的な威力と正確さを持つ左足のキックが注目されていた。体格に恵まれていることもあり、フィジカルコンタクトが強く、海外の選手に体をぶけられてもボールをしっかりとキープできる日本人としては希少価値の高い選手。相手を背負った状態で楔のパスを受け、後方の選手にボールを落とすレイオフを得意としており、ザッケローニ監督時代の日本代表では戦術の中心になっていた。その反面、スピードと俊敏さには難があり、ロシアで膝を負傷してからはさらにこの弱点が目立ち、チームのプレースピードを遅らせてしまう要因になることもあった。
名古屋でプレーしていた頃は、ゴールへの意識が低く、自分の中の美学はパスだったと語るほどだった。海外に移籍してからはゴールという結果が直接選手の評価に繋がることを痛感し、貪欲にゴールを狙うスタイルへとシフトする。上背もあるため、ヘディングシュートでのゴールも選択肢に入っており、正確にコントロールしたシュートだけでなくパワフルなシュートも持ち味としている。
サイドハーフ、サイドバック、ボランチ、サイドバック、1トップと時代によって様々なポジションを経験しているが、本人がこだわるトップ下が本職。総合的に見ると、クラシカルなタイプの「10番」のプレイヤーだと言える。
本田△
本田△とは、上の三つを兼ね備えるようになった本田さんへの敬称である。
もともとは本田のビッグマウスを揶揄する表現であったがオランダリーグでそれに見合う活躍をするようになり賞賛の表現へと変化していった。
2010 FIFAワールドカップでサッカー日本代表が採用した、本田を1トップに置くフォーメーションは、前線で攻撃を担当する本田、大久保、松井の3人が△を作っていることから、スポーツ紙によって「本田△フォーメーション」と名付けられた。
更には、2010 FIFAワールドカップでの獅子奮迅の活躍により、「サッカーファンだけでない一般からの認知・人気」という4つ目の要素も加わり、もはや「さん」付けですらおこがましいと、「本田□」→本田四角形→「本田氏カッケー」と言う意味を込め、本田△は本田□へと変化しようとしている。しかし実際には浸透しなかった。
2009-2010 エールディヴィジ VVV フェンロの戦績
PSV 3 - 3 VVV △ | VVV 2 - 2 ADO △ | UTR 2 - 2 VVV △ | VVV 2 - 2 GRO △ |
NEC 1 - 1 VVV △ |
人物
大叔父の本田大三郎は、1964年東京オリンピックのカヌー競技に出場。その息子である本田多聞は全日本プロレスやプロリスリング・ノアなどで活躍したプロレスラーであり、レスリングのフリースタイルでオリンピックに3大会連続で出場した経験がある。そういった意味では、一族の中で3人目のオリンピック出場経験者である。
2008年7月に22歳の若さで元保育士の女性と結婚。2012年秋に第一子を授かっている。
社会貢献には積極的であり、2011年の東日本大震災の際には義援金として日本赤十字社を介して5000万円を寄付。熊本地震、イタリア中部地震、メキシコ地震の際にも多額の寄付をしている。2012年からは小学生を対象としたサッカースクールの経営を始め、日本国内での規模を拡大させている。
2015年に本田のモノマネを芸にするじゅんいちダビッドソンがRー1ぐらんぷりで優勝しブレイクする。5月に放送された番組でじゅんいちがイタリアを訪れた際に共演が実現し、7月のじゅんいちの結婚披露宴の際にはビデオメッセージを寄せている。以後、本田が活躍するとじゅんいちも仕事が増える現象が起こるようになる。
良くも悪くもはっきり物を言うタイプで、自分の思ったことを包み隠さずストレートに述べるため、共感を呼ぶことも多いが、ネットで炎上することも多い。サッカーでも誤解を生んでチーム批判、監督批判と受け取られることがある。公式ツイッターを開設して以降は、政治問題や時事問題に対する発言が多くなっている。
ファッション
ガンバのジュニアユースの頃から派手めのファッションだったという。
2007年には両腕腕時計のスタイルを確立し、そのことを聞いた安田理大にこう答えたという。
誰が時計は片腕って決めたん?
トレードマークとなっている金髪は北京五輪以降。それまでは黒髪にこだわりがあったらしい。
経営者
2012年5月、自身がプロデュースするサッカースクール「SOLTILO FAMILIA」を地元の大阪に開校。日本国内に50校(関西、関東、東北、東海、北陸、九州)、海外では8校(中国、カンボジア、タイ)を展開。
2015年6月9日、自身のマネジメント事務所である「HONDA ESTILO株式会社」がオーストリア3部リーグのSVホルンの経営に参入することを発表。2度の2部リーグ昇格を果たすなど一定の成果を挙げ、当初の予定通り2018-19シーズン終了後に経営から撤退。
2016年12月26日、カンボジアのシェムリアップ・アンコールFCの経営に携わることを発表し、実質的なオーナーになる。2022年は2部リーグで12チーム中7位となっていたが、このシーズンを最後に解散した。
2017年9月11日、ウガンダ・プレミアリーグ(1部)のブライト・スターズFCを買収し、実質的なオーナーになる。その後、チーム名をソルティーロ・ブライトスターズFCに改称。
2020年1月14日、東京都を拠点とする「One Tokyo」を新たに立ち上げすることを発表。GMとしてチームに携わることに。2021年3月14日には「Edo All United」と改名。
解説者
2022 FIFAワールドカップの期間中は、全64試合を無料で放送するABEMAの「W杯プロジェクトGM」に就任。日本代表の全試合や準決勝、決勝では初めて解説者を務めた。
視聴者に分かりやすい戦術解説や試合の分析のみならず、本人の感じた事をそのまま情熱的に話すこれまでのサッカー解説にはなかったスタイルが視聴者からの反響を呼ぶ。面識のない選手に対する「さん」付けや「イエス!イエス!イエス!」「ななぁ~ふ~ん」などの名言も話題となり、実況の寺川俊平、ピッチ解説を担当した槙野智章、さらには日本のスタジオから呼びかける影山優佳との掛け合いも好評だった。」
ABEMAのワールドカップ放送が大成功した功労者となり、矢部浩之から「今大会の解説のMVP」だと評価されたが、今後解説はしないと話した。
発言
上述したようにそのビッグマウスぶりが取り上げられることも多く、しばしばその発言が物議を醸すこともある。
中には過去の名選手の名言を引用することもある(前置きすることもある)。その一部を列挙してみる。
- 「それはごもっともだけどオレの考えは違った」
- 2008年北京オリンピックでの発言と報じられたもの。当記事でも初版からその冒頭に記されている。2連敗してグループリーグ敗退が決まっていた後のオランダ戦にて、「オランダは巧いから深追いしなくていい」という反町康治監督からの指示に対しての造反劇と見なされ、一種の戦犯扱いをされるきっかけとなる。「本田△」という言葉が出てきたのもこの頃からで、まだ蔑称としての意味合いしか持っていなかった時代である。
- 「ベスト4ではなくて、優勝を目指してもいいと思っている」
- 2010 FIFAワールドカップのメンバー発表後の発言。かねてより岡田武史監督の「目標はベスト4」発言が独り歩きしていたうえに、大会前の日本代表が不甲斐ない試合続きだったこともあって「おまえは何を言っているんだ」とばかりに嘲笑の対象となる。が、結果はご存知の通りベスト4こそならなかったものの、国内外の下馬評を覆しての決勝トーナメント進出。
- 2得点1アシストとその原動力となった本田には岡田監督と同じような手の平返しが行われた。
- 「ゴールというものはケチャップのようなもの。出ないときは出ないけど、出るときはドバドバと出る」
- 2012年に行われた2014 FIFAワールドカップ最終予選、イラク戦後のインタビューより。1-0での辛勝という結果に決定力不足を痛感しての発言であり、以後本田や日本代表選手がゴールを決める度に一部で「ケチャップキタ―――(゚∀゚)―――― !!」とコメントされるようになる。
- なお、この発言は前後に「誰か名ストライカーが言っていたのを思い出すんですけど」と言っているように元ネタが存在する(元オランダ代表のルート・ファン・ニステルローイ)が、日本でこの用法が定着するきっかけを作ったのは紛れもなく本田の功績であろう。
- 「心の中のリトル・本田(≒小さな頃の自分)にどこでプレーしたいかと聞いたら、答えはミランだった」
- 2014年1月にACミランに移籍し、その入団会見での発言。ただ、本田の場合は実際に小学校の卒業文集に「セリエAに入団します。そして、レギュラーになって10番で活躍します」と所属先こそ明言しなかったもののこうしたことを書いていたことが日本のみならずイタリアのメディアにも取り上げられたので、ただのパクリとの指摘は当てはまらないだろう。
- 「(プロフェッショナルとは?という質問に)ケイスケホンダ。」
- 2018年ロシアワールドカップ直前に出演したNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」において、「あなたにとってプロフェッショナルとは?」という番組恒例の質問に対する答え。今後プロフェッショナルな人を形容するのに「おまえケイスケホンダやな。」と言われるくらいにしたいという豊富の意味での発言。当時、ハリルホジッチを解任に追い込んだ黒幕という疑惑がもたれ、発言に多くの人が注目していた中での発言だったことから、あまりにも斜め上すぎる解答に多くの人が度肝を抜かれた。
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- 本田圭佑 (蒼きSAMURAIワールドカップをめざせ!)(2013年7月1日、汐文社)
- フットボールサミット第8回 本田圭佑という哲学 世界のHONDAになる日(2014年1月7日、カンゼン)
- サッカー日本代表エース 本田圭佑 守護霊インタビュー ―心の力で未来を勝ち取れ!―(2014年6月20日、幸福の科学出版)
- キングジム HONDA ESTILO 本田圭佑 プロデュース 夢ノート 第2弾(2015年11月7日)
- 直撃 本田圭佑(2016年11月11日、文藝春秋) - 木崎伸也・著書
関連静画
関連コミュニティ
コミュニティが無いのは審判に邪魔されたとしか言いようがない。
関連項目
外部リンク
- 本田圭佑オフィシャルWEBサイト
- KeisukeHonda(@kskgroup2017) - 公式ツイッター
- Keisuke Honda (keisukehonda) - 公式インスタグラム
- Keisuke Honda - 公式YouTubeチャンネル
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